タイトル「誰かのためになるならば」
誰かのためになるなら、こうする。
そう書く人もいるだろう。でも、綺麗事だと思ってしまうのは、私だけじゃないと思う。
私だけだろうか?
誰かのためとか言う人は、そういう言い方しか分からない人か、純粋な人なのだろう。
でも、そう考えるのは、辛いと思うのは、私だけだろうか?
誰かのためと思ってやったとしても、賞賛されない。自分から言わない限り。
それを見つける人も少ないだろう。
自分は、このタイトルを見て面白くないと思ってしまった。古典的で、思いやりのある人は、「なにをするか」を書くだろう。
だが、自分は違う。
どうしても、辛そうと思ってしまう。だが、そう思う自分をクズだと思ったことは、ない。
人を助けるのは、自分のためと考えているからだ。
人を助ければ、もしくは、手伝えば。
その人からの評価は、上がり必然的と自分のためになる。そう考える方が自分にとっても、気が楽になると自分は思う。
誰かのためというのは、自分勝手に過ぎない。この考えに強がりすぎだと思う人もいるだろう。自分は、逆にこの考えを批判する人を評価し、強がっていると思ってしまう。
一番大事なのは、自分自身だ。
相手に気づいて貰えない「誰かのため」
は、その人のためになっていないと思う。
助ける時、手伝う時は、相手に気づいて貰えるように、した方が自分のためになるだろう。
優先するべきなのは、自分だ。
7/26/2023, 12:09:56 PM