柔良花

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「豊永くんって彼女とかいないの?」

 サークルの飲み会で出会ったばかりの、けばけばしい化粧の女が声をかけてくる。換気の悪い安居酒屋の店内はアルコールと煙の匂いが混じって酷く息苦しい。それだけでも嫌だと言うのに、わざとらしく俺の腕に豊満な胸を当てて来ているこの女は、羽虫を誘う花のように濃密で濃い香水の匂いをぷんぷんと撒き散らしている。

 ああ気持ち悪い。だから飲み会なんて来たくなかったんだ。淀んだ空気も酒も濃い味の料理も、全部苦手だと言うのに。一度くらいは顔を出してくれ、と頭を地面に擦りつけて頼む友人の勢いに負けた過去の自分を恨む。出そうになった恨み節を飲み込もうと、なおも右腕にしがみつく女を振り払って烏龍茶のグラスに口をつける。早くこの時間が終わることを願って、進みの遅い時計をチラ見しながら、心にもない談笑に身を投じた。 


 解散時間は八時過ぎ。二次会カラオケへの誘いをキッパリと断って家路に着く。身に染み付いた悪臭たちを一刻も早く落としたくて、少し足早になる。それに、家では可愛いお姫様が俺の帰りを今かと待ちわびているのだ。寄り道なんてするものか。

 電車に揺られ、最寄り駅から徒歩10分。お姫様の待つお城はそんな場所にある。まあただのマンションなのだが。家に入る直前、玄関前で髪を整える。あの子を幻滅させる事はしたくないから。一息ついてドアを開ければ、ぱたぱたと足音を立てて、彼女は満面の笑みで俺にしがみついてくる。

「きょーお兄ちゃん、おかえり! きょーもいちにちおつかれぇ」

 これが俺のお姫様。パステルピンクのパジャマが良く似合う、今年で5歳の俺の妹。俺の帰りがどれだけ遅くても、眠気まなこを擦って待っていてくれる、いじらしい女の子。今日だってほら、お風呂上り、シャボンの香りをした髪を乱して駆けてきた。舌っ足らずなその口で労われるだけで、疲れなんて吹き飛んでしまいそうだ。俺の身体をひしと抱きしめ嬉しそうな姿に、自然と笑みが零れてしまう。が、突然お姫様は顔をしかめて俺から離れる。

「きょーお兄ちゃん、くしゃい」
「ほ、ほたる……?」
「くしゃいお兄ちゃん、やだ」

 俺に染み付いた悪臭に対してなのは分かる。それでも、妹のその一言は俺の心に酷く突き刺さった。それはもう致命傷ギリギリくらいに。だから飲み会なんて行きたくなかったんだ。今日何度目かの後悔を胸に脱衣所へと急いだ。

 丹念に泡を立て、身体や髪に擦り付け、隅の隅まで丹念に流せば、すっかりシャボンの良い香りになった。着替えた部屋着も清潔で、これならお姫様の機嫌を損ねないだろう。濡れた髪をタオルで拭きながら寝室に入れば、半分目を閉じかけている妹の姿。こくりこくりと船を漕ぎながらも、懸命に目を開こうと頑張るその姿が可愛らしい。妹は俺の到来に気づくと再び俺に飛びついてきてすんすんと鼻を鳴らす。さて、お姫様の評価は如何に。

「お兄ちゃんせっけんのにおいー。ほたるといっしょ!」

 合格。心の中でガッツポーズする。お姫様はぴょこん、と俺から離れると、続けて俺に絵本を差し出してじっとこちらを見つめる。見つめ返せばもじもじと手遊びを始めた。読み聞かせのお誘い、彼女がこの時間まで睡魔に抗っていたのもこの為だ。もちろん俺は断らない。だって愛しい姫様の頼みなのだから。

 布団に潜って物語を語り聞かせれば、お姫様は様々な表情を見せてくれる。白雪姫がお城を追われればハラハラとした顔、小人たちと暮らし始めれば楽しそうに鼻を鳴らす。コロコロ変わる表情はどれも可愛いけれど、やっぱり一番好きなのは、瞳輝くにっこり笑顔。この先何があろうとも、彼女には笑顔でいて欲しい。だって童話のお姫様は、いつでもハッピーエンドを迎えるものだから。

 おしまい、と本を閉じれば隣で耳を傾けていたお姫様は、すやすやと安らかな寝息を立てていた。起こさないよう、ゆっくりと布団から出る。掛け布団を彼女の肩までしっかり掛け直して、その小さなおでこに優しく口付けた。いつか大きくなって、彼女だけの王子様か見つかるその時までは、仮初の王子様を演じよう。だって俺は彼女にとって、たったひとりのお兄ちゃんなのだから。
 どうか今は良い夢を。そしていつかは幸せに。そう願いを込めて寝室の扉をゆっくりと閉めた。


【幸せに】

4/1/2023, 7:27:56 AM