(加筆済み)
《月夜》#17 2026/03/08
「月夜の晩ばかりとは限らないから、気をつけてね」
「なんです?その意味深なの?」
「別に〜」
そう言い残して、先に歯磨きを終えた先輩は、給湯室から職場へと戻っていった。
見目は麗しいし、仕事も出来る人なんだけど、たまに言動が謎なんだよな…。でも、それも相まってか、男女問わず人気は高い。
そのわりには、浮いた噂一つ聞かないのよね。
そんなことを思いながらの帰り道。いつも通る、この陸橋の下のトンネルを抜ければ、もうすぐ我が家だ。まあ、慎ましいアパートの一室だけど。
そのトンネルに足を踏み入れた瞬間、交換が忘れ去られているような天井の蛍光灯が、不意に消えた。
唐突に視界が闇に包まれる。
『嘘でしょ』
真夜中でさえ明かりが支配するこの現代で、野外での突然の漆黒に、私は動揺を隠せなかった。
月夜の晩。
気になって、意味は調べてみた。
いやいや、まさかそんな。
それに、トンネルの先が全く見えない訳では無いし、あと、ほんの数分歩くだけで抜けられる。
でも、今日に限って誰も通り掛からない、この疑似的な無人の空間に、脚が、すくんだ。
その時、誰かに右手を取られた。
心臓が跳ねる。
え、いつの間に近づかれた?ってか、痴漢?
「大丈夫、行きましょ」
隣から、聞き覚えのある気がする女性の声。
え、でも、まさか。
「ほら、歩かないと、もっと怖いのが来るかも」
その女性の足音が、私の前に出た。
待って、置いていかないで。
その時、取られた右手がきゅっと握られた。
見えなくても分かる。これ、恋人繋ぎ。
そう認識した瞬間、すくんでいた私の脚が、一歩踏み出して。
その後は、あっという間だった。それはそうだろう。ほんの数十メートルのトンネルなのだ。
なのに、何キロも歩かされたような疲労を覚え、私はその場でへたり込んだ。
「良い夜ね」
声に促されて空を見上げると、やけに大きく見える満月と、それを背負った立ち姿の先輩。なにこれ、映画みたい。
「あの、どうして」
ここに?そう言おうとした私を、ひざまずくようにして抱き締めた先輩は、耳元で囁いた。
「さあ、なぜかしらね?」
先輩の声が耳朶を甘くなぞり、私はゾクッとして何かを感じた…これは…なに?
「さ、立てる?」
先輩がそう促すと、私はコクコクと頷きながら立ち上がった。
「じゃあね、私はここで」
先輩はそう言って、立ち去ろうとした。
え、待って。
こういう時って、何か、こう、あるものな気がする。
気がついたら、今度は私から先輩の手を取っていて。
「あら、これはなに?」
なに?って…分からない、分からないけど。
「言いたいことがあるのなら、どうぞ」
悪戯めいた表情をした、先輩の顔は直視出来なかった。
「もう少しだけ、一緒に、居てください」
絞り出すような声で、そう、懇願した。してしまった。
今宵の闇に、一人では立ち向かえなそうだから。
ある、月夜の晩に、心が絡め取られた私の話。
3/8/2026, 2:01:43 AM