いつだって、私は優しくされてきた。
両親からは可愛がられ、不器用ではあったけど、私の望みを精一杯叶えてくれた。
仲良くなる友達は皆器が大きくて、私の変な言動をいつも面白がって、一緒に笑って、時には泣いて、喧嘩もして、いっぱしの青春を味わわせてくれた。
すごく、すごく恵まれていて、幸せだった。
社会に出てからは、そんな私は全く価値をつけて貰えなかった。どこへ行っても怒られて、説教されて、使い物にならない奴の烙印を押された。
そこで私は思ってしまった。
「社会は優しく無いんだ」って。
もっと変わらないと、もっとちゃんとしないと、「明確に」役に立つ証明をしないと。
社会から「要らない」と爪弾きにされてしまう。
両親が「最近どう?」と気にしてくれても、友達が私に「会いたい」と言ってくれても、全然ありがたく無かった。
だって私は優しく無い社会に、しがみついて生きなきゃいけないんだから。
一時優しくされたって、後が辛くなるだけだ。
「もっとこうしろ」「何で出来ないんだ」「ダメな奴だな」
そんな言葉が降りかかる世界で、1人で生きなきゃいけないんだから。
優しくされて、表向きは感謝していても、本当は思っていた。
「優しくしないで」って。
更にそれをこじらせて、「私に優しいだと…裏があるだろ!」「お金は貸せませんよ!!」みたいに、ひねくれた目で人を見るようになってしまった。
今になって、漸く「それはもう違うよ」と言えるようになった。
社会が優しいかどうか、価値があるかどうか、まず私が決めて良いんだって教えてもらった。
「社会は優しい」
「何もしなくて良い、そのままの私でもう価値がある」
「だからもう、優しさを思いっきり受け取っていい」
決めてから、大分のびのび生きられるようになってきた。
でも変化はグラデーションで、たまーに昔の感覚が戻ってきたりする。
差し出されたものにムズムズして逃げ出したくなったり、「優しくしないで!」って叫びたくなる時がある。
その度に、「いやいや、もう違うから」と軌道修正するんだけど、最近はそれを楽しんでる自分がいる。
あんなに苦しんでいたのに、気付いて変えればこんなにも印象が変わるものなんだね。
散々こじらせて、絶望すらしていた「優しくしないで」は、今を楽しむスパイスになっています。
#やさしくしないで
2/3/2025, 11:24:15 PM