『忘れられない、いつまでも。』
「戻りました」
リビングのローテーブルに並べられた、いつもより数品多い和食料理。
冷めているのか、立ち込める香りは弱かった。
キッチンに立つことを嫌う彼女が作った肉じゃがが悲しげに艶めいて、罪悪感に苛まれる。
「……あ、おかえり。ごめんね、迷惑かけちゃった」
「俺の謝罪力を舐めないでください。キャンセル料と、ボトル3本購入して円満解決です♡」
「うん」
どさくさで、いつもよりちょっとお高い酒をチョイスしたことはナイショだ。
「今度、店に謝りに行くついでに飲みに行きましょうね♡」
「うん。ごめんね」
俺は今、しょんもりと肩を落とす彼女を必死に宥めている。
「……そんな顔をさせたくて、記念日を設けているわけじゃありませんよ?」
「でも……」
彼女が落ち込んでいる要因はなんてことない。
今日は彼女と交際を始めた日だ。
互いの誕生日、交際記念日、結婚記念日(ちなみに、彼女の誕生日と同日だったりする)、これが彼女の把握している記念日である。
交際した記念日にかこつけてうまいメシを食おうと彼女が店を予約した。
俺は仕事だったが、彼女は休みだったため駅で待ち合わせをする。
しかし、待てど暮らせど彼女は来ないし連絡もつかない。
ようやく連絡がついたと思えば、慌てふためいた彼女が、遅刻どころか自分で取りつけた約束をすっぽかしたのだ。
俺に甘やかされまくって、日に日にポンコツになっていく彼女がかわいくてしかたがない。
俺は爆速で予約した店に謝罪とキャンセル料を払って、爆速で自宅に帰った。
それが今である。
「れーじくんは忘れないじゃん」
「それはそうでしょう」
彼女が約束事を忘れるときは、彼女の人生に集中しているときだ。
そこに俺が入る隙間はない。
ムチャなリソースの割き方をする彼女の側にいたくて俺はいるのだ。
彼女に約束を反故にされることなど、傷にすらならない。
「俺はあなたと違って、あなたに人生を捧げてるんで」
それに、記念日なんて、うまい飯とうまい酒を彼女と楽しむための口実にしかすぎなかった。
食卓に用意してくれた豪勢な料理から、彼女は記念日を忘れていたわけではないのは明らかである。
喜びこそすれ、落胆などする理由はどこにもない。
「ちなみに、記念日の管理はもはやカレンダーじゃ間に合わなくなってしまって、一昨年からはエクセルで管理しています」
どうにか彼女の気が紛れないかと、俺は身を切る覚悟で切り出した。
「………………ん?」
案の定、彼女は瑠璃色の瞳を丸々とさせて俺を見上げる。
ここまでは想定内。
問題はここからだ。
……怒られるだろうなと思って、早口で一気に舌を回す。
「ちなみに今日は、あなたが靴下を左右で履き間違えた記念日と、キャリーケースを忘れて飛行機に乗った記念日、初めて俺にデンタルフロスをさせてくれた記念日、今さらお胸の大きさを気にして美容整形サイトを漁る姿がバカかわいかった記念日です」
「パソコンの負担にしかならないから、そのデータは今すぐ消せ!!」
予想通り、彼女の怒気がリビングに響き渡った。
「あ!! と!!」
彼女は眼光を鋭くして、俺を睨みつける。
「最後のは気にしてるんじゃなくて、無理だって言ってるのにれーじくんが是が非でも挟み込もうと毎日毎日、毎日毎日しつこく迫ってきたからじゃん!!」
「あ、えらいです、えらいです。そのとおりです。なんだ、ちゃんと覚えてるじゃないですか」
パチパチと小さく拍手をして褒めたら、その手を払いのけられた。
「当時の状況を覚えてるだけで日付なんか知らねーよっ! そもそも、そんなもん記念日に設定すんなっ」
彼女のかわいい記念日は幸福感に満たされるから、あればあるだけいいに決まっている。
彼女の主張は受け流してギュウギュウと抱きしめた。
「俺のことが好きだという気持ちは忘れないで……、その気持ちさえ疑わないでくれていれば、俺は安心できます」
彼女の「好き」という言葉で満足は、今さらできないから伝えない。
俺自身も、ずいぶん欲張りになってしまった。
「そんなの……」
おずおずと回された彼女の腕が、俺の背に縋った。
「今さら、忘れられないし。いつまでもずっと好きだよ」
あまりにもハッキリと伝えてくれるから、取り繕うことも忘れて声が溢れる。
「んっ、ふふふっ」
「げ。なに、その笑い方。気持ち悪っ」
「いや、すみません。そんなふうにハッキリと伝えられるとは。長年甘やかしてきた甲斐があったなーと思いまして」
「あなたの好意を噛み締めていたいのは山々なんですけど、俺、そろそろ腹が減りました」
「あ、そっか。先に食べる? あの、本当にごめ」
まだ謝り続けるか。
こうなったら最後の手段だ。
俺は持ち帰ってきた酒瓶を彼女の頬にグリグリと押しつける。
「これ以上、謝るのはなしです。謝り足りないなら俺の晩酌につき合ってください」
「え……」
「謝り続けられて罪悪感に潰されるなら、あなたに酒で潰されたいです」
「なにそれ。私、そんなに飲まないよ?」
「問題ありません。俺、飲ませるの得意なんで」
「やめてよっ!?」
「じゃあ、あなたも謝るのをやめてください」
「ん。わかった。ありがと」
酒瓶をローテーブルに置いた彼女は、トコトコとグラスを取りにキッチンに向かう。
冗談のつもりだったが、晩酌につき合ってくれるようだ。
「乾杯」
とグラスを掲げて、彼女の手料理に舌鼓を打った。
5/10/2026, 6:33:05 AM