鏡の森 short stories

Open App

#006 『仮面の人』
???

 夜明けを待って川を渡る。その後はしばらく連絡できない。
 すれ違いざま、くしゃくしゃに丸めた走り書きのメモを渡された時、日はとっくに高く昇っていた。
 路地裏に隠れて開いたメモは小さく千切って丸め、数回に分けて飲み下す。
 帰ってくる約束だったのに。そんな言葉もついでに飲み込む。
 望んで選んだ仕事じゃなかったと聞いていた。高すぎも低すぎもしない身長、どこにでもいそうな風貌、たいして特徴のない声に、よくある西部訛りの発音。それなのに語学から暗号解析、体術、暗殺術まで仕込まれて。
 あなたはずっと仮面の人。素顔のように見えたその顔、わたしに見せた穏やかな顔も、もしかしたら仮面なのかも。
 何もいらないと言っていた。名前も家族も、過去も、記憶さえ。ただただ祖国のために。そんな自尊心の方が、わたしにはよほどいらないものに思える。
 命さえいらないのかもしれなかった。でも、わたしには必要なものだ。
 届くはずもない、届いても聞き入れてはもらえないだろうと思いながらも、祈るしかなかった。
 ただ、無事ていて。他には何もいらないから。

《了》
お題/何もいらない
2023.04.20 こどー

4/20/2023, 1:21:05 PM