茂久白果

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 時を告げる
*ブロマンスです



 ボーン ボーン という聞き慣れない音に、ハッと目が覚めた。
 真っ白い天井。
 鐘の音のような音はまだ止まずに鳴り続けている。無理やりこじ開けたぼんやりとした視界。寝返りをうって隣を向くと、今度は心臓が止まるかと思った。
 目の前の光景が信じられなくて、何度も瞬きを繰り返す。俺の方に体を向けて目を閉じている。
 すやすやと、穏やかな顔で眠っている……佐治(さじ)さん。なぜ。
 佐治さんは前まで俺が所属していたチームのチームリーダーだった人で、今はデザイン部全体の総括リーダーになって。思いっきり、俺の上司だ。
 仕事上の会話しか交わしたことのない、雲の上みたいな、会社の女性社員みんなの憧れみたいな人が俺の向かいに横たわっているのはあまりにも変というか、奇想天外すぎるだろ。

 きっとこれは夢だ。そうかそうかと、仰向けに戻って目を閉じた。

 目を閉じると、残像のように朧げに昨日の記憶が少しずつ浮かんでくる。
 そうだ、昨日残業をしていて、このファイルを保存したらすぐに家に帰って明日のデートに備えて早く寝よう。なんて考えていた。そうしたら、スマホに一件の通知。
「ごめんなさい」で始まるその文章に嫌な予感がして、恐る恐る手に取った。
 付き合って三ヶ月で初めてのクリスマスイブのデート。それも土曜日だ。お泊まりなんて大胆なことは考えていなかったけれど、最近仕事があまりにも忙しくて、付き合いたてだっていうのにそれらしいデートもできなくて、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
 だから、彼女が好きだって話していた少し背伸びしたイタリアンのレストランだって予約済みだし、今までの埋め合わせをして、今後の関係性をもっと深めて。なんてひとりでいろいろと考えたりしていた。それなのに。

「ごめんなさい、私たち合わないと思う。少しの間だったけど、ありがとうさようなら」

 まるで、不用品のやり取りをするアプリの提携文みたいな、事務的な別れの言葉だった。そこからは彼女の悲しみも苛立ちもなんにも伝わって来ない。
 わかる、俺がきっと大切にしなかったせいだ。コンペの準備にかかりきりで、連絡の頻度も少なかったかもしれない。だけど本当に大切な仕事だったから。
 仕事が大好きだってことは伝えていた。好きなことを仕事にできるなんていいねって、彼女は言っていた。だからわかってくれているんだって……そう思っていた。

 なんで? どうして? 俺は好きなのに。どこがどう合わないと思うの?
 そう打とうか、それとも電話しようか。頭に浮かんでも手も指も動かなかった。
 そうやって彼女を引き止める資格が自分にはないような気がした。
 彼女が別れたいって言うなら、そうするのがいいのかもしれない。きっと悪いのは俺だ。

「わかった。今までありがとう、ごめん」
 頭にはいろんなことが浮かんだり消えたりしていたのに、結局そう送信した。他に言葉が思い浮かばなかったから。

「理由も聞かないんだね。そういうとこだよ。さよなら」
 次に来たメッセージはそれだった。
 俺の記憶には笑顔の彼女しかいない。そんな彼女からの、苛立ちと怒りをハッキリと感じた。そういうとこ……。自分を全否定された気がした。
 なんだか、バッサリと切り捨てられて急に胸がグッと締め付けられた。きっと悲しかったのは彼女の方なのに。なんだか視界がぼんやりとしてくる。
 力が抜けて椅子に座ったまま、動けなくなった。仕事は終わったし、PCの電源を切って立ち上がるだけだ。残業をしている同僚はもういない。早く、帰らなきゃ。


「市川君?」
 どのくらいの間そうしていたのか、ふいに呼ばれて飛び上がりそうなほど驚いた。佐治さんがそばで俺を見下ろしていた。
「あっ、佐治さん」
「あっ……」
 驚いたのは俺だけじゃないらしい、声をかけてきた佐治さんも目を見開いている。
 その時、頬に違和感を感じた。
「あ、なんでもないです、なんでもなくて」
 手の甲で頬を拭って、慌てて下を向いた。ズボンにぽたりと水滴。
 黙ったままの佐治さんになにか言わなきゃと思うのに、どうしよう、しか浮かんでこない。なにか取り繕うべきだ。困らせてる。

「どうしたの?」
 不意に頬に手を当てられて、思わず顔を上げた。佐治さんは心配そうに俺をみつめている。
「や、あの。大丈夫です。なんでもなくて」
「なんでもない顔してないよ? 何があったの?」
「や、そんな、佐治さんに聞いてもらうような話じゃなくて、」
「俺には、話したくない?」

 佐治さんはいつも冷静沈着だ。仕事でミスをしても受け止めてくれて、どうすればいいか対策を示してくれる。何年も一緒に働いていて、怒られた記憶もない。
 その佐治さんから感じた、初めての静かな怒りの圧だった。
 どうしよう、またそれで頭がいっぱいになってしまう。

「なんか、飲みに行こうか」
 下を向いた俺の頭に、手の重み。
 そんなのも、初めてだった。

 またハッと息をのんだ。
 飛び込んで来たのはさっきと同じ真っ白な天井。顔だけをそっと左側に向けてみるとやっぱり隣には佐治さんがいた。

 音を立てないように、ベッドを揺らさないようにそっと抜け出す。初めて来たとしか思えない部屋。佐治さんの部屋なんだろう。整理整頓されていておしゃれで、ずいぶん広い部屋だ。部屋を見回すと、大きめのソファにちょこんと腰掛けた。

 そうだ、カフェに連れて行ってもらって、泣き言をたくさん聞いてもらって。自分でも理解できないくらいに佐治さんに色んなことを話した。
 頭ではわかっていた。佐治さんとは仕事の話しかしたことがなくって、自分のことをペラペラと話すのは変だって。
 なのに佐治さんがあまりにも聞き上手で、いつもの仕事の時とはなんだか違って、まるで年上の友達みたいに優しくて、リラックスしてしまって。話題はそのうちに彼女とのことじゃなくて自分のことばかりになって、なにもかもを明け透けに、仕事の悩みや心配ごとまで、全てを曝け出していた。
 すごく自然な流れで、誘われて、佐治さんのうちにまでのこのこと着いてきて、一緒にお酒も飲んだ気がする。

 後ろを振り返ると、ベッドで眠る佐治さんが見えた。

 これは現実だ。
 話しかけるのも少し緊張してしまうような、憧れの先輩のプライベート空間に、なぜ俺はいるのか。

 また、ボーンっと一度音が鳴った。壁にかかった古い振り子時計の時を告げる音だった。七時三十分。三十分だから一回鳴ったのか。なんてぼんやりと考える。

 佐治さんと一緒に行ったカフェ、頬や頭に触れた手のひら。仕事の時とは違う、柔らかく笑う佐治さんの顔。何もかも初めてだった。
 佐治さんは仕事中に居眠りなんてしないから、寝顔だってもちろん初めてだ。

 ああ、何やってんだ、俺。
 思わず腕で顔を覆う。その白いスウェット。そうだ、服も貸してもらったんだった。

 なに、この状況。

9/7/2024, 2:59:07 AM