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その人と会った日のことは今でも忘れない。
大雨の4月だった。美術大学に行きたくて、受験に受かる絵を描きたくて初めて予備校に来た。
「じゃあ、描いてみて。終わったら講評するから声を――」
バダァンッと信じられない音がして、先生の顔がひきつる。削ったばかりの鉛筆を取りこぼしそうになって右手で掴んだ。
「せんっせーい!」
「ドアは静かに開けぇや、エリコ!」
エリコと呼ばれたのは、信じられないくらい美貌の女生徒だった。セーラー服がよく似合う長い黒髪がほつれている。先生が元ヤンだと知ったのと、エリコさんと出会ったのはどちらも私が1年の頃だ。

「わたし浪人してるんだよねぇ。今年で2年目」
私が2年のときにエリコさんが言った。私は高校2年、エリコさんは浪人2年。奇妙な偶然だった。その時でさえ、いや1年のときでさえ、今年は受かる、と私や予備校の教師でさえ思うくらいエリコさんの絵は秀逸だった。

3年のとき、エリコさんはまだ予備校に来ていた。添削のために描いていた再現作品を見せてもらったが、とても落ちるとは思えない絵だった。これが落ちて、私が受かるわけがない。そう出鼻をくじかれて始まった受験期は、悲鳴と落胆、快々諸々そうして終わった。

結果発表の日は、エリコさんと来た。
「緊張しますね」
エリコさんは一言も喋らなかった。
結果が張り出される。自分の番号を探す。尋常でないほど間の空いた番号を慎重に目でなぞる。
――え、嘘。あった。
現役合格? 私が? エリコさんは?
思わず横を見やる。エリコさんの番号は私より後で2枚目だ。でもエリコさんは1枚目の紙を見つめている――私の、番号を。

再現作品を描きに予備校に行った。いつも来ていたエリコさんを見かけることは二度と無かった。
私が殺した。あの天才を。ずっと隣で見ていたから分かる。あの人は天才だ。私なんかよりよっぽどゴッホやピカソそれらの巨匠に近い存在だ。
エリコさんを取らなかった大学は正気なのだろうか。芸術がここにあるのだろうか。エリコさんは存在が芸術みたいな人だった。あの人を取らないなんてどうにかしてる。

だって番号を見つけるまで私は、
エリコさんとなら落ちてもいいって本気で思ってたんだから。
【ずっと隣で】2024/03/13
長いねごめんね。最後まで読んでくれたならありがとう

3/13/2024, 1:39:14 PM