メンタリストダイ子

Open App

○君という生物へ

人間らしくありたいのならば、今すぐ異常事態へと踏み込むべきだ。
現世で生きるには盲目である事が必須であり、更に言うならば過去を自己の所有物としない——出来ないと言うべきか——柔弱な人間である事が求められる。人間が人間を主張するには凡そ気違い染みた振舞いを常態とする度胸が要る。間違っても素直でいようなどとは思わない事だ——生きたいのならば狂うべきであり、死にたいのならば無垢で居るべきなのである。
 そもそも人間というのは身の程を知らない愚者であり、周知の人間像というものには生気が全く感じられない。人間とは、生きるために生きる事を廃棄した暗愚そのものである。人間の罪は人類を名乗りだしたところから始まり、その醜態は今尚引き継がれている。人間が犬や猫や馬などの動物を語る時、よく他の——とか、人間以外の——といった言葉を使うが、現存する動物の中で最も非生物染みているのは紛れもなく人間だ。勘違いしてもらっては困るのだが、人間とは生物の象徴ではなく、単なる逸脱に過ぎない。凡そ生物らしくない人間という集団がまるで自然界の頂点に居座るかのように振舞う——何たる傲慢だろうか。
 一人のうらぶれた男が夜の街を闊歩する姿は正しく生命の神秘であり、異常事態への迎合を頑なに拒否する者への執拗な勧誘行為は、経歴詐称の押し売り販売人と何等変わらない下劣極まりない行為である。落伍者という言葉に隠された溢れんばかりの生命力こそを信じるべきで、その他の雑多なあれこれにいちいち頭を悩ませる必要などないのだ。落ちるところまで落ちた人間というのは二度と這いあがる事の出来ない囚われの身であり、時が過ぎて景色が変わったと嬉々として言いふらそうというものならば、それは滑稽以外の何物でもない。景色が変わったというのは何も自らが世界を変えた訳ではなく、健常者が頭上から落とした塵や腐乱が累積しただけの事であり、仮にその落伍者に只の一つも矜持といったものが無いのならば、その塵山を這い上がる事も出来るのだが、わざわざ生物の肩書を捨てる者などこの世に存在しないだろう。
 皆既に気付いているだろうが、人生に於いての努力とは、常に停滞の努力に他ならない。私達は人生という壁に必死にしがみつき、振り落とされまいと只管耐え続ける見世物の徒労でしかない。私達が幾ら望んでも過去に辿り着けないのはそのためである。過去とは私達が追い越すものではなく、追い越されるものなのだ。もし私達の背後に過去が存在するというのならば、この地道な滑落が功を奏さない事への説明が付かないではないか。最悪の更新を常態とする私達にとって、在りし日こそがまほろばであり、結局大人という存在は、子供の時分には存在した筈の無邪気さというのを求めて藻掻き続ける白痴に過ぎないのである。大人は何を得たかではなく何を失ったかで価値を測る。青年期とは謂わばそのための備蓄期間であるのだが、もしここで何も得る事が叶わなかった人間が大人に成った場合、一体何を失っていくのか。それは正しく自己だ。となると経験という身代わりを持たないものは少しずつ自己を削り取られながら生きていく事を強制される事になる。もしそうなった場合、人間はいずれ来る消滅を只管に待つしかないのだが、幾つかの延命措置がこの世には用意されている。
 その一つが創作だ。創作とは間に合わせの自殺に過ぎず、私達の何らかの証である。何事に於いても継続性というのは重宝されるものだが、創作という類では"し続ける"事の表す意味は生命の短期化に他ならない。作家に求められるのは欲動を枯らさない事と、諦める事だ。そしてその諦めとは、人間に更なる苦を齎すものである。目標とはまるで悪友のようだ。私達を散々誑かして振り回した挙句、唐突に姿を消し、心の落ち着いた時機を見計らってまたひょっこりと顔を出してくる。これは街角での邂逅のように偶然のものではなく、必然なのだ。ここに諦めるという事の真意がある。全て捨て去る事が出来るなどとは思わない事だ。諦めるとは、追求すべき何物かを視界の隅に据えたまま、気付かない振りをする事である。問題なのは、彼は常に受動的であるというところだ。一切の事情に対する私達の態度は、常に被害妄想で溢れているという事だ。私はこの有様に名前を付ける術を知らない。いや、付けるべきではない。その言葉もまた、加害者となるのだろうから。
 とにかく、私達は無闇矢鱈に物事に手を出すべきではない。心を閉ざし、凡そ人間らしさを喪失し、活き活きと日常を耐えるべきなのだ。その先に何が待つか。その先で何を行うか——未来は決まってなどいないと言われているが、それはほんの少しだけ間違っている。最高か最悪か、またはそのどちらでもないか。私の結末が最悪であるという事は前提であり、問題はどの最悪を選択するかという事に掛かってくる。これからについて、私は今一度向き合うべきであろう。
君はどうだ? これでもまだ、人間を諦めきれないか?

4/4/2025, 5:42:15 AM