アシロ

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※いつだったかに書いた教師と女生徒の話の続き



「······いいか、もう一度説明するぞ」
 放課後の数学準備室。数学がわからないので教えを乞いたい、という生徒の要望に応えないわけにはいかないので、俺はその女生徒を普段自分が使っているデスクに座らせ、俺自身はデスクの横に立ち壁に背中を預けながら、女生徒がノートに数字を書いていくのを見守っていたのだが······書き始めて四文字目の数字で、既に間違ったものを書いている彼女は本当にさっきの俺の説明を聞いていたのだろうか? と激しく不安な気持ちになる。と、言うか······。
「さっきも説明した通り······素数というのはな? 1と、その数でしか割り切ることが出来ない数字を指す。お前は今、どの数字を書いた?」
「えっ!? 1と2と3と4ですけど!! え、もしかして間違ってますか!?」
「ああ、しっかり間違ってる」
「だって、1は1でしか割れなくて······2も、2でしか割れない······3もそうで······4も······」
「············4は2で割れるだろうが」
 彼女はハッ! とした顔をし、まるでこの世の真理を発見したとでもいうかのような表情で俺を見上げると「ほ、ほんとだ······!!」と目をキラキラ輝かせながら感動を伝えてくる。そのキラキラの中、瞳の中央部分にハートマークが見えた気がしないでもないが俺は見ていない。何も見ていない。
 まさか、素数なんていう基礎中の基礎を未だに本気で理解出来ていない生徒が居るだなんて俺は思いもしていなかった······数学教師的にはとんでもないカルチャーショックだ。と、同時に、この猪苑愛花(いのぞのまなか)という生徒のテストの成績などをうすぼんやりと思い返せば、確かにそれなりに酷い点数を叩き出していた覚えがある。それにしたって、まさか素数すらわからない生徒が居るだなんてそんなの俺は聞いてない。未だに何かの間違いだと思っている。素数なんて数学にも入らん、もうこんなの算数だ算数。
「えーっと······1と他の数字で割れない数字が素数······ってことは、素数は誰かと馴れ合う気のない孤高の数字ってことですね!? 自分自身が特別かつ希少性のある唯一無二の数字だと理解している可能性!? 簡単には他の数字に心を割って話すことすらしない!?」
「ストップ。ストップだ、猪苑。ストップ」
「あのですね!? そうなると、私にとっての丁原(ていばら)先生も素数ってことになるんじゃないですかね!? 特別で唯一無にアダァッ!!」
「口ばっか動かしてないで手を動かせ、手を」
 デスクの上に置かれていた数学の教科書を引っ掴み、猪苑の頭を叩く。こいつが誰を好きになろうとこいつの勝手だが、それが一体どうしてこうなっちまったんだか······と、俺は一瞬遠い目をしながら向かい側の壁を虚無の心で見つめた後、デスクの端に置かれている包装された小さな箱を見つめる。
 今まで全くそんな素振りなど感じたことなどなかったというのに、俺は今日──二月十四日の朝、この猪苑から校門で声を掛けられ、そして「良ければ食べてください」とあの箱を差し出された。よく考えてみれば今日はバレンタイン。教師生活二十年、今まで今日という日に生徒からプレゼントなんぞ渡されたことなどなかった俺には今後も縁のないものだと決めつけていたし、実際頭からそんな行事綺麗さっぱりすっぽ抜けていた。
 まず浮かんだのは「なして俺?」という疑問だったが、まぁまぁ、落ち着け。これが本命チョコだなんて誰が言った? そう、誰も言っていない。猪苑は風紀委員達と共に毎朝校門で挨拶運動をしている俺を労う言葉も最初に掛けてくれていたし、本当にただ純粋にその言葉通りの意味で贈り物を渡してくれた可能性の方が高い。義理チョコから始まり、友チョコやら逆チョコやら最近は色々流行っているんだろう? おっさんの俺だってそれぐらいは知ってる。そもそも、お世話になっている目上の異性に対して女性は大抵義理チョコを贈る生き物だ。おっさんだからな、それだってちゃんと理解している。
 ただ······如何に義理チョコだとしても、他の生徒達がガンガン通り過ぎていく校門前で、仮にも教師の俺が生徒の猪苑から、よりにもよって今日という日に贈り物を受け取るというのは大変よろしくない。非常ーーーーーーーーに、よろしくない。風紀が乱れるどころか下手したら俺の教師生命が終わる。昨今のSNSってやつは怖いからな。おっさん、こんな年齢になってSNSで炎上デビューとかしたくねぇよ。
 という理由により、その場で受け取ることは一旦拒否させてもらったのだが、せっかく俺のために生徒が用意してくれたプレゼントだ。今日が二月十四日という事実には目を瞑り、人目につかない休み時間か放課後になら、という旨を伝えた結果······どういうわけか、プレゼントを改めて渡された後、こうして素数を教えるハメになっている。
「とりあえず50までの素数、全部書き出してみろ。それが合ってたら今日は合格出してやる」
「ええ〜〜50!? 多いです!! 丁原先生の鬼!!」
「あ? 100までの方がいいって?」
「50まで書き出しまぁーーーす!!」
「ったく······最初っから素直にそう言っとけ、一言多いんだお前は」
 そう言い、何気なく──本当に、何気なく──さっき教科書で叩いた猪苑の髪の毛が少し乱れてしまっていることに気が付いて、左手を伸ばし適当に整えてやる。
 ······あ? 猪苑の手が全く進んでいない。あんなに意気揚々と書き出すとか言って、しかも俺にはよくわからん日本語で素数の意味を自分風にアレンジしどうにか理解したような様子だったのに。
「おい、猪······」
 俺は、最後まで猪苑の名前を呼びきることが出来なかった。覗き込んだ猪苑の顔は発熱でもしているのかと思うほど真っ赤で、眉をハの字にし、視線は困ったように斜め右下辺りへ向けられ、何かに耐えるようにキュッと唇を噤んでいた。それを確認し、俺はぎこちない動きでギギギィ······と首を猪苑の頭部へと戻し······未だに置かれたままだった自分の手を、何事も無かったかのようになるべく自然に離す。そう、自然にだ。自然を装うんだ。決して相手に動揺を悟られるな、死ぬぞ。
「······先生は、ズルいです」
 猪苑が悔しそうな声音でそう言うので、俺は何も知らない振りをして答える。
「さぁ、何のことだ」
 ······デスクの端に置かれたままのアイツ。まさか本当に本命かもしれないだなんて、そんなこと考えるわけないだろ。もうズルくたって何でもいいから、俺は大人の特権「見てない知らない聞いてない」を発動させ、さっさと課題を終わらせるようにと猪苑を急かしてやった。

2/5/2025, 5:21:23 PM