「君と歩いた道」
ふと顔を上げると藤の花が目に入った。初夏の爽やかさを感じさせる淡い花は外のジメジメとした雨模様に似つかわしくなかった。眼鏡をかけ直して改めてカレンダーを見ると、5月のままで合点がいった。
ページをめくると鮮やかな紫陽花が顔を出した。そして赤ペンで書かれた「結婚記念日」の文字。
慌てて時計の日付を確認する。今日は6月8日。結婚記念日まであと2日しかない。
最近仕事が詰まっていて朝早くに家を出て夜遅くに帰ってくる生活をしていたから、女房とは1週間くらい顔を合わしていない。
そんなすれ違いの中で結婚記念日のプレゼントを忘れていたとなると、それこそ離婚の危機だ。
それはなんとしても避けなければならない。
女房はライバル会社の社長令嬢で、僕はそのライバル会社に潜入しているスパイだからだ。
元々は普通のサラリーマンだったが、ライバル会社にヘッドハンティングされたことをきっかけに、社長から企業スパイを任命されたのだ。
女房は私がスパイであることは知らない。
潜入している間に女房が私に一目惚れをし、トントン拍子で結婚してしまった。
相手の社長令嬢と結婚することで、ライバル会社での立場も盤石になるし、より良い情報を手に入れられるかもしれない。そんな安直な考えで結婚してもう10年になる。
これから重役を任されようとしている時期で離婚の危機はあってはならない。
私は元会社の事情を知る仲間に電話をした。
「結婚記念日のプレゼントって何がいいんだ?」
「あー、例の社長令嬢ね。ブランドもののバックとかアクセサリーとかいいんじゃないの」
「そんなものは普段からあげてるんだよ」
気まぐれな女だから、気持ちが離れてしまうことはなんとしても避けたい。一目惚れだから外見を整えておくだけでいいなんて甘えてはいけない。常に出来る男を演出するために、なんでもない日に贈り物をしている。
いつも通りライバル会社に出社する。
隣の席の同僚にコソコソっと同じ質問をしてみた。
「なあ、結婚記念日が近いんだが、何をプレゼントしたらいいと思う?」
この同僚はなかなかの切れ物で俺と同じく重役への昇進が期待されている。
「10年も一緒にいて分からないのか」
鋭い目つきで俺を見るとパソコンに目を戻した。重役のポジションを狙うライバルだからといって、そんなつっけんどんな言い方をしなくてもいいではないか。
「10年一緒にいたからといってすべて分かるような単純な妻じゃないんだよ」
なんとなく悔しくてそれっぽいことを言い返した。
「確かにそうかもな」
同僚は鼻で笑うと、顔を近づけてこそっと耳打ちした。
「花束とかいいぞ。ブランドものより真心が伝わるというらしいし。花はそうだな、この季節だし紫陽花とかいいんじゃないか」
来る結婚記念日。俺は紫陽花の花束を持って帰宅した。いつもより早めの帰宅に女房も驚くだろう。サプライズだ。
元気よく扉を開けると、見覚えのない男物の靴が目に入った。
「誰か来ているのか?」
リビングへ向かうと女房はおらずソファに腰掛ける見たことのある鋭い横顔。
「お前…」
嫌な予感がして、俺はそいつの襟元を引っ張った。
「おい!なんでお前がいるんだ?」
同僚は不敵な笑みを浮かべて、鋭く睨んだ。
「本当に紫陽花を買ったんだな。バカだなお前は」
「女房はどこだよ!」
「社長のとこだよ」
同僚は俺を突き飛ばして襟元を整えた。
「明日お前の企業スパイについての審議がある」
血の気がサッと引いていく。
「お前が彼女と過ごした20年はお前がスパイであることの証拠を掴むためだったんだよ。一目惚れ?そんなの嘘だよ。彼女は社長令嬢といえど優秀な社員だ。自らお前に近づいて、スパイである証拠を掴んだ」
にわかに信じがたかった。しかし彼女の聡明さ、頭の回転の速さなど納得せざるを得ない部分もある。
全身が震え、裏切りの花が青い頭を揺らした。
6/9/2025, 10:00:00 AM