「願いが1つ叶うならば」
ふと、目が覚めた。時計は午前八時を示している。
本来ならば焦らなければいけないが、生憎今日は夏休みの真っ只中。焦る必要は無い。朝食はどうしよう、と少し悩んだ末、目玉焼きと、昨日余ったキャベツの千切りで済ませる事にした。
朝食のために起き上がり、用意をする。キャベツは冷蔵庫から取り出すだけ。目玉焼きも油を引いて焼くだけ。料理を殆どした事の無い人でも簡単に再現出来てしまう程に手短で確実である。その単純作業をさっさと終わらせて、食事を摂る。特にテレビも見ずに黙々と、生きるための行動をしていた。その空間は余りにも静かで、聞こえてくるのは自らが発する咀嚼音と、エアコンの音と、時偶遠くから聞こえてくるクルマやバイクの音。余りに色彩の無い生活。最近、私はこんな生活に嫌気が差してきた。
そんな生活を繰り返していたある日、ふらっと本屋に立ち寄り、買いも、読みもしない本を見つめながら店内を散策していると、旅行雑誌が目に入った。私は見つけた瞬間、とてつもない好奇心が湧き上がった。何の味気もない生活を送っていた私にとって旅行というものは、手軽で非日常を体験することができる代物であった。
そんな、日本の津々浦々の観光地をまとめたガイド本の中で、ある場所が目に留まる。上高地という場所であった。
そこからの毎日は自らの好奇心の為だけに動いた。自らが必要だと思う日用品をリュックサックに詰め込み、上高地までの経路及び交通費と宿泊料の確認。そして、山に入るのだから、登山用のブーツやジャケットも揃える。今まで何もしていなかった分、金はある程度余裕がある程には残っていた。また、寝る時は「早く時間よ過ぎろ」と願い続け、そんな夜を何度も経験した。そして念願の日はやってくる。
八月初旬、バスタ新宿へ向かい、待機所で夜行バスが来るのを待っていた。久しく忘れていた、心から沸き立つ好奇心と未知への恐怖。こんな気持ちになったのはいつぶりだろうか。少しだけ過去を振り返る。
そんな事をしている内にバスが到着した。その時の目は、まるで心踊らされている少年少女の様。バスに向かう一歩一歩が喜びに満ちている。自分が何者であったかすらも消し去る程の歓喜である。今となって考えてみると、あの時の私は少し不気味でもある。
煌びやかな都会の摩天楼が遠ざかる。また明後日には帰ってくるが、バスに乗り込み、少し冷静になった私には、名残惜しく感じた。だが、もう戻れない。このバスは最後まで走り続ける。目的地に私は胸を高鳴らせながら、早めに眠りに就くことにした。明日はどんな一日になるかを考えながら。
微細な振動と走行音に目を覚ました。外を見ると、雲が少し確認できる程度で、いい観光日和とも言える程度には晴れていた。腕時計を見ると五時過ぎといったところ。もう一度寝ようと考えたが、日も既に登っていて、座って寝るのが少し苦に感じる私は、起きることにした。
気づけば三つのダムを越えて、周りは川の侵食によって創り出された谷と天高く聳え立つ山々であった。
「ついに来たのだ」と、先程の眠気など忘れ、一人静かに歓喜していた。そして、バスから降りた時、真っ先に感じたのは寒さである。夏真っ只中だったこともあり、多少涼しくなるだろうと考えていたが、私の想定を上回るほど寒かった。近くの電光掲示板を見ると「19℃」の文字。山地の寒さを甘く見ていた私を自分で少し戒めながら、穂高連峰を見上げた。
まるで、時が止まったようだった。
普段、都会では見ることのない、壮大で荘厳な山並み。
山を、自然を畏れるという感覚を初めて覚えた。
あの衝撃は忘れることは決して無いだろう。
しかし、ここに来て突っ立っている訳には行かない。少し周辺を歩いてみよう。そう思い、橋の周りを散策した。少し先に見える橋は河童橋というらしく、景色とも合った美しい橋である。その橋の上から見る梓川は日光が反射し、水の透明度とも合わさって、宝石の様だった。そして、水のせせらぎと鳥のさえずり、澄んだ空気。汚れた心が優しく水で洗われているよう。この時を永遠にする事はできないかと考えてしまうほど、この時間が気に入った。
ある程度周りを散策し終わると、今度は明神橋を目指して進み始めた。ここから先は熊がよく出るという。熊よけの鈴も着け、森へ入る。青々と繁っている草木と、僅かな隙間から入り込む薄明光線に、益々進む意欲がました。
歩き続けて一時間半が経っただろうか、明神橋が目と鼻の先に見えていた。先程までは視界に丸々収まっていた穂高連峰も見上げなければ視界に入らないほどに大きくなっていた。そんな雄大な自然を堪能しながら、明神橋の先にある休憩所でお茶を買うことにした。
休憩所に近づけば近づく程人は増え、休憩所には各自アイスを買って食べたり、食事を摂っている人など、様々な休み方をしている。私も休みながら水分補給をするために自販機へ向かう。自販機へ辿り着いた時、私は現実に引き戻された。麦茶が600mlで250円。流石に財布を開く手が止まった。ちらりとリュックサックの中にあるペットボトルを見る。中の水は残り僅か。潔く買うことにした。
さて、多少たじろぐ事はあったが、水分補給という重大目標を達成し、ベンチへ腰掛ける。何気に山道を一時間半歩いていたので、座った瞬間足が悲鳴を上げ始めた。仕方がないので小一時間程ここで休憩し、来た道を戻る事にした。
河童橋周辺へ戻り、遅めの昼食を済ませて、売店の横にある椅子に座り込んだ。朝からバスに箱詰め状態で歩いたのだ。疲労感が全身を駆け巡る。それと同時に瞼も重くなる。そのまま結局、眠気には勝てず眠ってしまった。
目を覚まし、時計を見る。時刻は午後三時。そろそろ宿泊するホテルへ向かおう。といっても、ホテルは目の前にあるのだが。
チェックインを済ませて、ベッドへ飛び込む。寝てはいたが、座った状態での睡眠だったため腰があまり休まらない。その状況下ででのベッドは正に極楽。故に夕食まではベッドで横になり時間の経過を待つことにした。
外ではまだ多くの人がハイキングを楽しんでいる。
そんな小さな幸せの音が、心に響く。もう心には霧ひとつ無い、爽やかな白が輝いていた。
日も暮れて夕食の時間になり、コース別の料理に舌鼓を打つ。今日は非日常の連発であり、暇な時間など訪れない。ここ最近で一番濃密な時間を過ごしている。また、外を見てみると、明かりが少ないため星空がよく見える。昼には地に、夜には空に宝石は存在するこんな場所こそ、私が求めていた物なのだろうと、満足感に包まれながらも、食事を終えた。
その後、湯船に浸かり、一日の疲れを抜く事に専念した。この時には既に「次はいつ来ようか」などと、幾分か先の事を考えたりもした。
風呂から上がり、体を拭き、自室へ戻る。まだ午後九時だが、明日の下山に備えて早めに眠ることにした。電気を消し、部屋が暗くなる。しかし、段々と目が暗闇に慣れて、星明かりに照らされた部屋がよく見えるようになった。そんな部屋の中で、一つの願い事をした。
「もう一度、大きな喜びや感動に出会えるように」
その願いを最後に、私の意識は星々に消えた。
川のせせらぎと鳥のさえずりで目を覚ます。贅沢な寝起きである。時刻を確認すると朝食まであと一時間。思った以上に余裕があるため、ゆっくり身支度をしようと立ち上がる。その時、両足に電流が走ったかの様な痛みが起きた。この夏休み、ずっと家に籠っていたからか、筋肉痛になったのだ。
こればっかりはどうしようも無いので、痛みに耐えながら、歯を磨き、顔を洗い、髪を整える。そして、朝食もゆっくりと口に運びながら楽しんだ。朝食後は少し自室で休んだ後、チェックアウトを済ませ、ホテルを後にする。
筋肉痛のため、予定よりも早めに下山する事になったが、後悔は無い。やり残した事はあるが、また来ればいい。まだ見ぬ感動を未来に残す。そうすれば、少なくともぼんやり生きるなんて事はなくなるだろう。そう思いながらバスで下山した。
帰りの昼のバスの方が行きよりも早く新宿に着くらしく、少し残念に思えた。だが、今の私には希望に満ちた心がある。その為か、心做しか色彩が豊かになったように感じられた。
また、日常が戻ってくる。でも、色彩の無い生活に戻ることはないだろう。今の私なら、未来の事をずっと考えていられる。私は大切なものをようやく見つけられたのだ。
了
3/10/2025, 1:13:19 PM