《記憶の海》
約一年間の記憶を失った。
そう聞かされたのは、目が覚めた日の夜のことだ。
どうやら、事故に遭ったらしい。
言われてみれば、多少、思い出せる記憶があった。今更ながら、全身が痛い。
「……本当に、記憶を失ったんでしょうか」
「残念ですが。……ただ、一年分の記憶で済んだ、というのは不幸中の幸いだったと思われます」
「そうですか。……ありがとうございます」
実感が伴っていないからか、口が勝手に言葉を紡ぐ。
身体的に異常は見られなかったようで、これ以上この場所にお世話になることに意味は無いようだった。
記憶が戻るまでは、と提案されたが金銭的余裕もない為断って、翌日の朝には帰宅することにした。
正直、たった一年の記憶が無いだけで、そこまで生活に支障をきたすようには思えなかったからだ。
家へ帰ると、気を失ってから今日までの二週間、溜まった郵便物が雪崩を起こしていた。
拾い集めて、鍵を開けて、扉を開く。
見慣れた入口だ。
なにせ、この場所に二年間住んでいるのだから。いや、三年間か。
廊下にあるロウソクに火を灯すと、両親から贈られた二人掛けのソファが目に入る。
取り敢えず荷物を横に置いて、体をそこに投げ出した。気持ちがいい。
「……うん、何も変わってないじゃないか」
このまま寝てしまいそうで、慌てて起き上がる。
大きな窓から月の光が差し込み、低めのテーブルも本棚も、書きかけの手紙を拡げた机も変わらずここにある。
満足して、上着を脱いで、壁に掛けて。
「…………それで、君は誰だっけ」
ベッドに腰掛けて読書をしていた青年に話しかけた。
一見少女と見まごう彼は、艶やかな髪を緩く結んで、眼鏡越しに翡翠の目を怪訝そうに歪ませる。なぜか、覚えがある顔だ。
記憶の海に解けていたように。
彼だけが、存在していない。
「……え? 君の同居人だけど」
「……生活能力の無さそうな君と、いつだって金のない僕がかい?」
「……わかってるのに、どうして今更聞くんだよ。そんなこと」
彼の高めの声に非難の色が混じる。
だが、それに見て見ぬふりをして、額に手を当てた。
「……だめだ、思い出せない……」
「記憶を失ったとは噂に聞いたが、本当にそうだとは……」
「ここ一年の記憶がね……」
ため息一つして、青年は本を置いて立ち上がった。
「そうかい、なら自己紹介してあげるよ。私は君に家事を頼む代わりに、生活費を払っている同居人だ。名前は、アルス。約一年前から出会っていたんだが……まぁ、改めてよろしく」
「……あぁ、今のを聞いても全く思い出せなかったよ。ごめん、アルス」
「気にするな。またこれから、仲良くなろうじゃないか」
「あぁ、頼むよ」
これが二人の同居人——もとい、強盗と被害者の再会であった。
記憶の海に、彼は元々存在していたのか、否か。
5/14/2025, 10:13:31 AM