結城斗永

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 境目のない雲が空一面を覆っていた。
 黒くも白くもない、単純な灰色でもない曖昧な雲。
 少し待てば晴れ間も見えそうな――でも、少し突付けば大粒の雨を落としそうな雲。

 いつもの喫茶店。騒がしくも静かでもない、適度なノイズが心地いい。
 私は、四人掛けのソファ席から窓の外を眺めながら、少し湯気の落ち着いたコーヒーを一口すする。
 豆の種類も、煎り方も、抽出方法すらも知らない。でもそれでいい。はっきりとした輪郭も持たず、味の主張をすることもない。
 店主のこだわりなども特になく、ブレンドと名前がついただけの、この万人受けしそうなありふれたブレンドコーヒーが私の好みである。

 ドアベルが鳴り、ほんの少しの間をおいて、彼が静かな足音を立てて近づいてくる。
 彼はいつものように無言で私の向かいの席に座り、水を持ってきた店員にその場でブレンドコーヒーを注文する。私は視線を窓の外に向けたまま、彼が発する音に耳を傾ける。ショルダーバッグのファスナーが開く音、文庫本のページがめくれる音。
 程なくして彼が低く渋い声で呟く。
「最近、毎日こんな空模様だね」
 視界の先にある曇り空は、相変わらずどちらに転ぶかわからない不安定さを抱きながら、それでいて落ち着いていた。
「私は嫌いじゃないわ」
「僕もだよ」

 特に待ち合わせをするでもなく、入店時に互いを認識すれば、こうして同じ席について話をする。単にそれだけの関係。
 どちらの口からも、この関係に名前を付けるような話は出てこない。会って話をするのはこの場だけ。外で会うこともないし、互いに深く干渉することもしない。
 そんな不安定だけど曖昧な関係は、私にとって別に苦ではなかった。

 コーヒーに手を伸ばしながら、ちらりと目にした彼のブックカバーに、エッジの効いた黒猫のシルエットが映える。
「ブックカバ―変えたのね」
 確か、前回ここで会ったときに本を覆っていたのはモネの絵画だった。
「君はこういう変化によく気づくよね」
「意外だなって思っただけ」
 生成りの綿麻で織られた立ち襟のシャツに、細い縁の丸メガネ。彼の佇まいには、なんとなくモネが似合っていた。
「娘からの贈り物なんだ。父の日の――」
 彼がそう言って小さく息を漏らすように笑う。
「へぇ、結婚してたんだ」
「言ってなかったっけ――」
 そうして今日もまたひとつ、二人の間に新しい情報が更新される。そこに嫉妬や妬みのような感情は微塵もない。
 ――ただ、ブックカバーの変化になんて気が付かなければよかったという後悔が頭を巡る。彼についてひとつ何かを知る度に、私たちの関係性が名前を持ってしまいそうになるのが不安だった。

 しばらく互いに干渉しない時間が続く。
 沈黙の中で見上げた雲が風を受けてわずかに動きを早める。
「雨、降らなければいいけど――」
 思わず口にした言葉が、私の本音の端から端を振り子のように行き来する。いっそ雨が降ってくれたら、少なくとも雨が止むまでは、この時間が続くだろうか――なんてことを考えてしまう。
「コーヒーもう一杯頼むかい?」
 彼がほとんど空になった私のカップを視線で示しながら言う。
「そうね。もう一杯だけ」
 私は底に残しておいた最後の一口を飲み干す。舌の上に残った微かな滓は、しばらくのあいだ曇天のように、ぼんやりとした苦みを漂わせ続けていた。

#cloudy

9/22/2025, 1:50:52 PM