高校一年生の時、好きな子が出来た。ずっと「可愛いな」と思いながら目で追ってしまいつつも、自分から話しかけたりなんて出来ずにいた。だけど二学期に入った直後の席替えで、なんと彼女の隣の席になれたのだ。彼女は話し上手かつ聞き上手で、その上に褒め上手。口下手な僕にも自主的に話し掛けてくれて、生物──特に人体に関する知識──を授業中にこっそり教えてあげたら、彼女は俺の話にただでさえくりくりとした目を更に丸くして、「すごいね、物知りなんだね!」と、小動物みたいな小さな掌をパチパチ叩いて笑ってくれた。
次第に彼女からの視線を時折感じるようになりだし、振り向いた先で彼女が慌てたように不自然に視線を逸らし歩いて去っていく姿はとても愛嬌に溢れていた。ああ、可愛い。そんなに照れなくたっていいのに。本当に可愛い。そんな気持ちを抑えることが徐々に難しくなっていき、多分、彼女に僕の好意はダダ漏れだったのではないかと思う。お互い言葉にこそしなかったものの、僕たちの心は通じ合っていた。両思いって、こんなにも照れ臭くて、心臓がドクドク煩くて、脳みそが幸せに塗れて痺れるものなんだ。初めての恋は僕に色々な感情を運んでくれて、大人の階段を一段だけ登れたような気がして、僕はだれかれ構わずに大声で自慢して回りたい気分になったりもした。でもこれは二人だけの秘密。僕らは秘密の関係なのだ。そう考えることで、何とかそのような奇行に走ることは避けられた。毎日が幸せで幸せでたまらなかった。
なのに······運命は残酷だった。ある朝、担任の先生が教室中を見回し、淡々と告げた。彼女が、両親の仕事の都合で引っ越すことになったと。皆と一緒に授業を受けることが出来るのは今週いっぱいだと。僕の頭は、真っ白になった。
彼女は、前みたいに僕に話し掛けて来なくなった。僕も、何を言えばいいのかわからなくて話し掛けることが出来なかった。だって、こんな状況で彼女になんて声を掛けたらいい? 何を言っても傷付けるだけな気がして、それなのに我慢していつものように笑う姿が鮮明に想像出来て······歯痒い気持ちを抱えたまま時は刻々と過ぎていき、遂に彼女の最後の登校日が来てしまった。
友達の多い彼女なので、最後のホームルームが終わるとクラスメイト達にワッと群がられていた。違うクラスからも彼女との別れを惜しむ友人達がたくさん来ていた。「また遊ぼうね」だとか「こっちに来ることがあれば連絡してね」だとか言いながら、女友達連中はギューッと彼女のことを抱き締めていた。男友達連中は「向こうでも元気でな」など、あくまでも短い挨拶に留める奴らが多かったが、皆揃って悲しげな、切なげな空気を醸し出していた気がする。もしかしたらあの中の何人かは、彼女に想いを寄せているような奴も居たのかもしれない。ああ、可哀想に。その光景を教室の外から眺めながら、他人事のように哀れんだ。だって事実、僕にとっては他人事だ。なんせ、僕らの想いは通じ合っていたのだから。あんなにも人気者な彼女は、人よりちょっと人体について詳しいだけの、こんな面白みも何もない僕なんて男を選んでくれたのだ。その点に関してだけは、彼らを見下すに値する十分な理由があった······と、誰にともなく言い訳じみたことを考えていた。そうして僕は静かに、未だに喧騒に包まれ続ける教室前から立ち去った。
「ねえ」
友人達から解放され、一度職員室に寄ったあと、彼女は漸く下駄箱が立ち並ぶ校舎の入り口へと一人でやってきた。下駄箱の陰にずっと潜んでいた僕は、彼女の姿を確認すると同時に彼女の側へ寄り、勇気を振り絞って話し掛けた。気まずいままお別れだなんて、それだけは絶対に嫌だったんだ。
僕が姿を現すと彼女は相当ビックリしたようで、思わず、といった感じで二、三歩ほど後ろに後退し僕から距離を取る。「ビックリした······」と、胸に手を当て深い息を吐く姿すらも愛らしい。
「僕ら······また、会える?」
僕の問いに彼女は瞠目し、唇をキュッと引き結んだ。ああ、これは聞いちゃいけなかっただろうか。彼女のことを傷付けたいわけじゃないのに。ただ、僕の大好きなあの笑顔を見たいだけなのに。こういう時、口下手な自分に嫌気がさす。
俯きながらそんな反省をしつつ、僕は彼女の言葉を待った。体中に突き刺さる沈黙が痛い。今まで彼女としてきた会話が走馬灯のように流れては消えていく。彼女は話し上手だったから。だから、彼女との間にこんな居た堪れないような沈黙が流れるのは初めてだった。それぐらい、彼女にとって答えにくい、もしくは言いたくない質問を投げ掛けてしまったのかもしれない。今からでも前言撤回をするべきだろうか、なんて考えていたら、それまで沈痛な面持ちで黙っていた彼女が······笑った。
「うん!」
いつも見ていた、太陽みたいに明るい笑顔。目を細めて目尻を下げる子犬みたいな、庇護欲に駆り立てられる愛くるしい笑顔。それが見たかった。それをもう一度見たかった、はずなのに。
「こっちにお爺ちゃんお婆ちゃん住んでるし、また帰ってくるからさ! だから、心配しなくてもだいじょーぶだよ!」
そこまで言うと彼女は靴を履き替え、トントン、とローファーの爪先を何回か床に打ち付けて。
「じゃあ、またね!」
笑いながら手を振り、僕の横を走ってすり抜け、そのまま振り返ることもなく駆けてゆき······そして、僕の視界から姿を消した。僕の前から、呆気なく居なくなってしまった。
残された僕は······下駄箱に背中を預け、ズルズルとその場に座り込む。
「······何で嘘、ついたんだよ······」
頭を両手で抱えながら、思わず口をついて出た言葉。そう、僕は先程の会話から、彼女の“嘘”を見抜いていた。だって、笑顔のはずの彼女の瞳は······ほんの僅かだが、水分で揺らいでいるように見えたから。
······察するに。彼女は何らかの事情で、二度とこの地に帰ってこれないことを知っていた。だから他の奴ら含め、僕とはこれが永遠の別れになるとわかっていた。でも、その残酷な現実を彼女は僕に伝えることが出来なかった。口にしてしまったら、本当にそんな未来が確定してしまう気がして。それゆえに彼女は、「また帰ってくる」と嘘をついたのだろう。自分の心と、そして僕の心を守るために。二度と消えないような傷を付けたりなどしないように。何処までも優しい彼女が口にした“優しい嘘”が、その気遣いが、僕には逆に痛かった。そんなことを彼女に言わせてしまった自分の軽率さを呪った。
この“優しい嘘”を鵜呑みにした振りをして、いつまでもこの地で彼女の帰りを待つことは簡単だ。甘い幻想に浸って、一生そんな日など来ないという事実から目を背けて、思い出の中の彼女と永遠に生きる。嘘をつかざるをえなかった彼女の心情、決意や覚悟を慮り尊重するのならば、このまま騙された振りを続けることこそが彼女のためになるのかもしれない。
しかし僕は、どうしても······どうしても、諦めきれなかった。“彼女”という存在を、諦めることが出来なかった。だから。だから──。
「やあ、久しぶり。僕のこと、覚えてくれてるかな?」
あれから何年もの月日が流れ。僕はもうすぐ大学を卒業するような年齢になっていた。
大学生になるまでの間はとにかく大変だった。あまりにも調べ物が多すぎて。それでも、自分の将来に関わることだ。投げ出すわけにはいかなかった。
大学在学中もそれはそれで大変だった。相変わらず調べ物が膨大な量、存在していた。しかしやはり、投げ出すことなど出来なかった。もう少し。あと少し。そう自分を叱咤激励し、諦めることなく頑張り続けた。
そして、遂に今日。僕の頑張りは神様に認められたのだ。
「な、ッなんで······どうして······」
一人暮らしをしている部屋の玄関を開けた彼女は、あまりのことに動揺してしまったのか足から力が抜けてしまったようで、その場にペタンと尻餅をついた。そうだよね、ビックリしたよね。ドアを開けたら突然僕が居るんだもの。でも、どうしてもサプライズにしておきたかったんだ。だって、その方が君も嬉しいでしょ?
「ずっと、ずっと、ずーーーーーーっと探してた。やっと見つけた。やっぱり僕ら、運命の赤い糸で繋がってるんだ」
「ぃや······やだ······」
「どうしたの? 怯えることなんてないよ。だって僕、全然怒ってなんていないよ?」
ゆっくりと玄関に足を踏み入れ、後ろ手で扉と鍵を閉める。ガチャリ、と鳴ったのは、チェックメイトを告げるもの。
「君が嘘をついたことも、いつも僕に怯えていたことも、なんにも怒ってない。僕から逃げたことだって、全然、ぜ〜〜んぜん、怒ってないよ? だって僕、君のことが大好きだから」
「お、願······こ、来ないで······」
「だからさ、ほら、怖がらないでよ。久しぶりの再会をさ、二人でお祝いしよう。僕、色々と用意してきたから」
「ごめんな、さ······ご、めッ······ごめんッなさい······ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい······」
「それじゃあ、二人の再会を祝して!」
僕は鞄の中から密かに取りだしそぅっと背中に隠し続けていたサバイバルナイフを構え、愛しい彼女に突き立てた。
僕のついた“優しい嘘”も、君には気付かれちゃってたのかな? ずっと怯えて······ああ、可哀想に。
何度も何度もナイフを振り上げ、振り下ろしながら、やはり僕は他人事のようにそう思った。だって他人事だもん。ね?
1/24/2025, 2:19:42 PM