その人の背中は、いつも遠くにあった。
中学の入学式、緊張で固まっていた僕の目の前を、すっと通り過ぎたひとりの少女。髪を結わえたリボンが揺れて、少しだけ振り向いた横顔に、一瞬だけ目が合った気がして、心臓が跳ねた。けれど彼女は僕のことなど覚えていなかったかのように、名前を呼ばれて静かに返事をした。
それが、僕の「始まり」だった。
彼女はいつだって人に囲まれていた。テストではいつも上位にいるし、運動もできる。だけど鼻にかけない。誰にでも公平で、さりげなく優しい。教室の隅で本ばかり読んでいた僕にすら、図書室で本の貸し借りを手伝ってくれたり、帰り道で落としたノートを黙って拾ってくれたりした。
でも、それだけだった。近すぎず、遠すぎず、春風のような距離感。
気がつけば、僕はいつも彼女の背中を追っていた。
同じ部活に入ったのも偶然だった。僕はそれほど走るのが得意じゃなかったけれど、彼女が陸上部に入ると知って、なぜか僕も走ってみたくなった。スパイクを履いて初めてトラックを走った日、息が切れて目の前が真っ白になっても、先を走る彼女の姿だけは、くっきりと見えていた。
「君、フォームきれいだね」と、彼女は笑った。
その一言で、どれだけの時間を僕は走ってこれただろう。
だけど、彼女の背中は、どこまでも遠かった。
高校に上がると、僕たちは別々の学校になった。風の噂で彼女が推薦で進学したことを知った。駅の改札で偶然見かけた日、制服が変わった彼女は、すこしだけ大人びて見えた。
僕は走ることを続けた。彼女がいるわけでもないトラックで、ただただ走り続けた。汗まみれのシャツを絞るとき、土の匂いが胸を刺した。けれど、その痛みすら、彼女の残像がもたらしてくれるものなら、悪くないと思った。
時折、SNSで彼女の名前を検索してみる。大会の記録に名前が載っていたり、笑顔で映る写真があったりして、そんなとき、そっとスマホを伏せた。
僕にとって「君の背中を追って」走ってきた日々は、きっと恋なんかよりずっと濃くて、深くて、誰にも言えないまま、ただ心の底に沈んでいた。
そして、あれは大学の春だった。
新歓のポスター作りを頼まれて、キャンパスの隅で立て看板を打ちつけていた僕は、ふと、向こうから歩いてくる姿に目をとめた。
その後ろ姿に、見覚えがあった。
ふわりと揺れる髪、歩幅、肩のライン——すべてが、僕の記憶のなかの「彼女」だった。
「……久しぶり」
声をかけるか迷った。心臓が嫌なほど早鐘を打って、言葉が喉でつかえた。けれど彼女は振り向いて、目を見開いた。
「——えっ、○○くん?」
名前を呼ばれて、足元がふらつきそうになった。彼女の方が、先に気づいてくれていたなんて。そんな未来があるなんて、思いもしなかった。
近くのベンチに座って、僕たちは高校までの空白を埋めるように話した。彼女は競技をやめて、スポーツ医学を学ぶために大学を選んだという。
「怪我が続いて、ね。でも今は、人を支える方が好きになったんだ」
その言葉が、彼女らしかった。
風が春の匂いを運んできた。満開の桜の下、僕は心の中で、もう一度だけ確認する。
「君の背中を追って、ここまで来たんだ」
彼女は笑って言った。
「じゃあ、これからは並んで歩こうよ。もう、後ろばっかりじゃなくてさ」
その笑顔を見たとき、世界の輪郭が少し変わった気がした。
ずっと遠かった背中が、いま目の前で、同じ歩幅で動き出していた。
6/22/2025, 1:00:44 AM