Day.32_『予感』
「嫌な予感するなぁ」
そう、思った時に引き返せば良かった。
今となっては、もう、遅い。
「あの……僕の話、聞いてますか?」
低い声の丁寧な口調が聞こえる。
「嫌だ……怖い怖い……!」
「………」
ギュッと手を握られ、引っ張られる。
怖くて目も開けられない。
ガタガタと音がする。
何人もの悲鳴が聞こえる。
その場で立ち止まりたかったが、彼がそれを許さない。
涙がとめどなく流れる。
「もう、大丈夫ですよ」
「っ!!」
優しい声が聞こえた。
私はゆっくりと目を開ける。
そこには、逆光に照らされ、困ったように笑う彼の姿。
「本当に苦手なんですね。……お化け屋敷」
彼に言われ、私は振り返る。
そこには『最凶の廃病院』と書かれた看板の文字。
「だから言ったじゃん!『嫌な予感する』って!私、お化け屋敷は苦手なんだよぅ……」
「あはは、でも可愛かったですよ?怖がる姿」
「笑いながら言わないで!」
「あはは、すみません」
ケラケラと笑う彼に向かって、ぽかぽかと殴る。
ある程度、彼をぽかぽかした私は、ムスッとしながら歩き出す。
「どちらに?」
「お手洗い!顔直してくる!」
「あはは、行ってらっしゃい。なにか食べ物買っておきますね」
私は、足早に歩き、近くのトイレの化粧台に入る。
鏡で見てみると、そこまで悲惨なことにはなっていなかった。
「良かった……涙で化粧崩れたら、それこそ悲鳴ものだもん……」
私は、化粧ポーチから化粧品を取りだし、手早く直し始める。
「………」
彼は、同じ会社の後輩だ。
何でも出来る優秀な後輩で、ビジュも良い。
高身長で、低姿勢。
誰にでも優しくて、噂によるとスポーツマンでもあるとか。
私も、彼が気にならなかったわけではない。
だが、私とは住む世界が違う。
そう考えて、日々を過ごしていた。
だからこそ、不思議だった。
「なんで……私なんか……」
化粧直しをしながら呟く。
この遊園地は、彼から誘ってくれたのだ。
しかも、この後、水族館にも行く予定。
水族館の中にあるレストランに食事に行くのだ。
「……あっ、おかえりなさい」
「……ただいま」
私が戻ると、彼は手にチュロスを2本持って立っていた。
「どちらがいいですか?チョコとシナモンです」
「シナモン」
「はい、どうぞ」
「ありがと」
私は、チュロスを受け取りひと口食べる。
「ん、美味しい」
「本当ですか?それは良かったです」
キツすぎない程度のシナモンの香り。
普段、チュロスを食べない私でも食べやすい味。
「こちらもいかがです?」
彼は、そう言ってそっと差し出してくる。
「いいの?それじゃあ……」
私はそう言いながら、自分のチュロスをちぎり、差し出す。
「……いいんですか?」
「いいよ。私ばかり貰ってもしょうがないし」
「では、お言葉に甘えて」
「…っ!?」
彼はそう言うと、私がちぎったチュロスをパクッと食べた。
「……ん、美味しいですね。はい、お返しです」
「えっ?あっ……あり、がとう」
私は彼がちぎってくれたチョコのチュロスを手で受け取る。
それを口に入れた。
「どうですか?」
「う、うん!美味しい、ね!」
「それは良かったです!」
まるで少年のように笑う彼。
そんな彼の目の前で私は、顔が熱くなっていた。
「……大丈夫ですか?」
「っ!?だ、大丈夫!ちょ、ちょっと疲れちゃって……」
心配そうに見つめる彼に、慌てて言い訳をする私。
私がそう言うと、彼は言った。
「そうですか……時間も時間ですし、そろそろ行きましょうか」
「う、うん。そう、だね」
彼が頷き、出口に向かって歩いていく。
私はその後ろをついて行く。
歩きながら、彼の先程の行動が頭の中をループしていた。
(まるで、恋人みたい……)
そんな考えが過ぎっては、頭を振って掻き乱す。
彼が、私に好意を向けているなんてこと、あるわけがない。
(私と彼は、ただの先輩と後輩……それだけ)
そう、必死に言い聞かせる。
その時だった。
「……もう少し、ですね」
「……えっ?何か言った?」
彼が何かを言った気がした。
よく聞き取れず、私は聞き返したが……
「いえ、何も?」
「そう?なら、いいけど……」
そういうやり取りをしながら、彼の車の助手席に乗る。
シートベルトをして、彼がエンジンをかける。
「では、行きましょうか」
「うん」
車が動きだした途端、急激に眠気が襲ってきた。
助手席に乗っていて、眠るわけにはいかない。
そう思い、必死に目を開ける。
すると、運転している彼が一瞬チラッとこちらに視線を向けてきた。
「眠たければ、寝てもらっても構いませんよ?」
「そう?なら……少し、だけ……」
彼に促された私は、静かに目を閉じる。
そして、意識が無くなる直前……
「おやすみなさい……僕の、運命の人」
彼は、そう、言った気がした。
10/21/2025, 12:52:14 PM