onion cryer 330

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4、仇を取るのを忘れてる ー 半袖 ー

私は彼を階段から突き落として殺す。
そんな私の目論見は結局上手くいかず、意識を取り戻した彼は私の元へ平然な顔をして帰ってくる。
ただ帰ってきた彼は彼であって彼じゃなかった。
全てを忘れてしまったという彼は私の見た事のない困り顔で笑ってベットに座っていた。
ベッドの上で“ごめんなさい。分かりません“を繰り返す彼は
私が殺したあいつとは別人なんだ。そう。きっとそうだ。
これはテレポーテーションのパラドックスに似ている。
何百もの哲学者が集って出なかった問の答えをここで決めてしまうのも気が引けるが別人と言ったら別人なのだ。
そんな彼に私は彼の唯一の味方だと何度も言って聞かせる。
彼は私の手を取って涙を浮かべてありがとうと笑った。
罪悪感などひとつもない。私は恋人に寄り添う健気な彼女として病室の窓際にヒヤシンスを飾った。
そんな話がもう半年も前のことだ。
あれから私はずっと、昔話なんて言う名目の理想を彼に注ぎ続けている。今や彼の頭の中は私が教えたことが全てで、
彼の人物像だって私が造り上げた通りになった。
またいつか本で見た思考実験に似てると思うと恐ろしいけど、
背徳感に似た何かが私の手を緩めさせてくれない。

えぇ、はい。いつも優しくて明るくて怒ってるところなんて見たこともありません。植物と読書が好きで、落ち着いた、
大人の余裕がある人というか、そんな感じでしたね。

なんて具合に。

そして今日が私の誕生日だと言うのも私は抜かりなく伝えていた。想定通り私が彼に話した
『プレゼントをよくしてくれた優しい人』
なんて言う設定を懇切丁寧になぞってプレゼントを買ってきた彼の手にはブランドの紙袋が握られていて、中には私が好きなヒヤシンス色の夏服が何着か入っていた。
けど、いざ広げてみるも半袖ばかりの服達に笑ってしまう。
きっと前の彼ならプレゼントはもちろん半袖の洋服なんて
何があっても買い与えることはないだろう。

“なんせそれは指名手配犯がポスターを持って外に出るようなものなのだから“

試しに腕の痛々しい痣を見せてみる。
彼は一瞬、顔を歪ませ優しい声で『誰にされたの?』
と聞いてくる。

さて、彼は私を守るといった。

けど生憎もうここには怪物も魔王もいない。
怪物は今や勇者になって
剣をかまえ、私に背を向けているのだから。
きっと世界は平和だろう。

ただ怪物のあなたに会いたいと思ってしまう守られたはずの私はこれからも善良な市民をやって行ける自信が無い。

7/25/2025, 5:22:41 PM