氷室凛

Open App

 玄関の呼び鈴が鳴るのはいつだって突然だ。
 カツカツと鳴るそれを聞いて、何をするでもなくぼんやり椅子に座っていたイルはのろのろと魔法陣を開いた。薄暗い部屋に赤紫の光が灯り、玄関の声と彼の音声が共有される。

「名前と用件は」
『ノエと。ノエ・レッドナイト。ベガの兄だ。以前手紙を出したのだけど、返事がもらえないから直接きた。妹の友人であり魔王を討ち倒した勇者の君にお願いが。1ヶ月後に大陸中を周る大規模な航海をする。1人で100人を薙ぎ払うとも言われる魔人たちと互角に戦い、そして勝利を納めた、そんな人が護衛にきてくれたら心強いと思ってね』

 スラスラと話すノエに、

「……ワリィ、そういうのはやってねェ」

 イルは机の一角を見ながらそう答えた。
 そこには便箋が山となって積まれている。同じように護衛をしてくれだとか、剣の指導をしてほしいだとか、果ては娘と見合いしてくれないかとか。断りの連絡をするのも面倒で、すっかり放置してしまっている。近ごろは封を開けるのすら億劫だ。

(──別に、他にやることがあるわけでもねェンだけどな)

 あの日以来、何をするにも身が入らない。
 妹が毎日何か届けてくれるから、それでどうにか飯は食えてる。毎朝剣を振る習慣も抜けない。だからきっと、表面上は普通に暮らしているように見えている。

 けれど──空恐ろしい予感がする。剣を振るのを1日でも怠れば、きっともう立ち上がることさえできなくなる。
 そう思うから、今までの習慣は続けている。惰性で慣性だとしても、止まってしまえば再び動くだけの気力はもうないから。
 ましてや、いつもと違うことをするなんて。

 もう話すことはない。
 イルが魔法陣を閉じようとしたとき、それがわかったかのようにノエは声を大きくした。

『わかってるのかい、君。航海だよ、航海。海へ、行くんだ。海へ。あの子の行きたがっていたっていう、海へ』
「! テメェ、なンでそれ知って──!?」

 ノエの言う「あの子」は、ロキ呼ばれていた少年に他ならない。
 かつてイルと旅をし、最後に海が見たかったと言いながら死んだ──イルが自らの手で殺した、魔王とも呼ばれていたただの少年。

 彼の話題が出た途端に息巻くイルに「ベガに聞いた!」と簡単に答え、ノエは再びまくしたてた。

『彼は濃い肌の色に黒髪だったんだろう? 今回はそういう容姿の人が多い国からの出航だ。もう誰にもわからないけど、もしかしたら彼の生まれ故郷だったかもしれない。わかってるだろうけど、普通の人がこの国から出る機会なんてほとんどないよ。その国から出航することも滅多にない。君がそこへ行くのは、これが最初で最後のチャンスかもしれない。さあ、どうする!?』
「おれ、は──」

 行って、いいのだろうか。
 救えなかったくせに、彼の故郷へなんて、行っていいのだろうか。
 誰よりもアイツが見たかったはずなのに、そのウミとやらを見るのは俺でいいのだろうか。

 言葉に詰まるイルの鼻先を、窓から吹き込んだ風がかすめていく。
 それは暖かくて、少しだけしょっぱい気がした。





出演:「ライラプス王国記」より イル、ノエ
20240823.NO.31.「海へ」

8/23/2024, 11:50:30 AM