「世界は一度モノクロに回帰すべきなんだ」
分厚いサングラスをかけた男がぽつりと呟けば、傍らで行儀良く座るクリーム色の大型犬が大きな欠伸をした。内装や家具、男の着用品の一つまで全て白黒で構成された部屋の中では、濡れたピンク色の舌はやけに映えて見える。
男はそんな愛犬の頭を片手で撫でながら、そのまま言葉を続けた。
「君もそう思うだろう?」
男は眼前の相手に同意を求めるように問いかける。しかしその声に答えを期待する色はなかった。彼にとって、これは単なる独り言に過ぎないのだ。
だが、それでも彼の目の前にいる相手は律儀にも返事を返した。
「いえ全く。生憎僕は色好みなもので」
十代半ばほどに見える少年が冗談めかした口調で答える。顔立ちはあどけなさが残るものの、青く光るその瞳にはどこか達観したような雰囲気があった。
「そもそも世界は元より、色で溢れていたじゃないですか」
「しかしそれを証明することはできない。私はね、この写し絵のような世界に戻りたいだけなんだよ」
二本の指で挟んだモノクロ写真をひらひら揺らしながら男は言う。端が少し破れたそれには灰色の空を背景にして立つ少女と、今もなお男に頭を撫でられているものに似た大型犬が写っている。何ら特別ではない、ありふれた日常を切り取ったものだ。明暗の差だけで表現されたそれからは、どこか静謐な美しさが感じられる。
「写真技術の発展は素晴らしい。けども、残酷だ。もう戻れない過去の風景を鮮明に残してしまう」
「そうでしょうか。僕にはそれが救いのように思えますが」
「君はまだ若い。それゆえ理解できないのだろうね」
男は自嘲するように笑うと、持っていた写真を机の上に置き、代わりに湯気の消えたコーヒーを口に運んだ。
「〝恋をすると世界が色付く〟やら〝色の無い世界の中で彼女だけが輝いて見える〟やら、人々が言い始めたのはいつからだろうか。しかし私にとって、それは文字通りの事だったんだよ」
少年は何も言わず、ただ黙って耳を傾けている。
「彼女……君のお祖母様にあたる女性は私の世界の唯一の色彩だった。生涯を共に過ごすことは叶わなかったが、それでも彼女と過ごす時間は幸せだった。だからこそ、今の色彩に溢れた世界が耐えられないんだ」
「だから回帰すべきだと、貴方は言うんですか」
「人々は結果と過程を入れ替えてしまった。自身の特別が色づくのでは無く、色づいたものこそ特別だと勘違いするようになった。そうして色が溢れてしまった世界は私にとって眩しすぎる」
こいつが居なければ散歩すらままならない、と男はまた傍らの犬を撫でる。その手つきはとても優しく、慈しみに満ちている様に見えた。その様子を、少年は青い目で睨むように見つめる。
「祖母から聞いた通りです。貴方は随分自分勝手で、夢想家だ」
吐き捨てるように放たれた言葉に、男は小さく笑った。
「夢を見るのは、何も子どもだけでは無いんだよ」
「そうですね。でもやっぱり貴方の思想には賛同できません」
ほお、と男は興味深げに少年を見やる。
「それは何故かな」
「貴方と違って、僕の世界は最初から色づいていたからですよ。それに……」
そこで言葉を区切り、少年は男の顔を真っ直ぐに見据えて言う。
「世界が鮮やかに見えるのは、貴方がそう望んでいるからじゃないですか」
少年の言葉に、男は一瞬虚をつかれたような表情を浮かべる。が、すぐにその口角を上げた。
「ふふ、面白い冗談だ」
「冗談で結構です。ただ貴方が言う通りモノクロの世界の中で特別だけが色づいたと言うのなら、今の色鮮やかな世界は、つまりそういう事ではないですか」
色好みは貴方の方じゃないですか、と最後に付け加えて少年は口を閉じた。男もしばらく無言のままだったが、やがて堪えきれないといった様子で笑い出す。
「ああ、やっぱり君は彼女の血縁だ。眩しくて仕方ない」
返事をするかのように傍らで寛ぐ犬が「ばう」と短い声で鳴いた。
【カラフル】
5/2/2023, 10:13:23 AM