初音くろ

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今日のテーマ
《ここではないどこか》





ここではないどこかへ行きたい。
わたしは時々無性にそんな気分に捕らわれる。
現状に大きな不満があるわけでも、何かに追い詰められているわけでも、逃げ出したいと思うような悩みを抱えているわけでもない。
それなのに、時々、どうしようもなくそういう衝動に駆られてしまうのだ。
そういう自覚はないけれど、逃避願望でもあるのかもしれない。
今まさにそんな気分になってしまっていたわたしは、雑談に紛れて、悩みともつかないそれを打ち明けた。
相槌を打ちながらわたしの話に耳を傾けてくれていた彼は、殊更に楽しげな笑みを浮かべて「なるほど」と頷く。

「じゃあ、来月の連休はどこか遠出しようか」
「え?」
「ここではないどこかに行きたい――それならその欲求を満たせばいい。今日今すぐにとはいかないけど、旅行の計画を立てるだけでも少しは満たされるんじゃないかな」

事もなげにそう言うと、さっそくスマホをタップして旅行業者のサイトを開いた。
出張の多い彼はわたしとは比べものにならないくらい旅慣れているからか、驚くほどフットワークが軽い。
ぽかんとするわたしを置き去りに、混雑しそうな場所は避けた方がいいなとか、この時期ならこの地方のこれが美味しいとか、ここではこんな催しがあるとか、わたしが興味を抱きそうな場所をあれこれピックアップしていく。

「それとも具体的にどこか行きたいところとかある?」
「ううん、特には」
「じゃあ、今ここで上げた中で行ってみたいなと思うところは?」
「えーと……」

誘導されるまま絞り込んでいく内に、わたしの中にあった漠然とした「ここではないどこかに行きたい」という気持ちが「ここに行きたい」という具体的な要望に変化していく。
そうすると、これまではそんな気分になる度にどこか心許なさを伴っていたというのが、不思議なことにまるで霧が晴れるが如く綺麗に払拭されていってしまった。

「うん? どうしたの、そんな狐に抓まれたような顔して」
「だって、長年の不安な気持ちが一瞬で解消されちゃったんだもん。そりゃあ、そんな顔にもなるよ」
「そう? ああ、でも、そうかもしれないな。自分のことほど分かりにくいものだし。第三者の立場だからこそ見えることもあるだろ」

そう言って笑いながら、彼はどんどん旅行の計画を立てていく。
今度はわたしも口を出して、思いつくまま希望を言ってみた。
それに対し、彼は叶えられるものとそうでないものを丁寧に説明してくれる。
そうして、次の連休までもう1ヶ月切っているというのに、移動手段や穴場の宿などを実に手際良く決めていく。
穏やかな人柄ゆえか、日頃はどこか頼りなくすら感じていたというのに、今日の彼はいつになく頼もしい。人には得手不得手があるものだけど、こういうことはきっと彼に向いているんだろう。

こうしてわたしの悩みは無事に解消され、次の連休はここではないどこかへ彼と赴くことが決定した。
次にまたあの感傷にも似た思いに駆られたら、また彼に相談しよう。
そうしたら、わたし専属の素敵なガイドさんは、きっとまた魅力的な旅の提案をしてくれるに違いない。





6/28/2023, 12:24:37 AM