湯船遊作

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意味がないこと

僕は久しぶりに、鳥の鳴いているタバコ屋へ行った。
店主のお爺さんは相変わらず居ない。呼び鈴を鳴らさねば裏から出てこないのだ。きっとドラマでも見て時間を潰しているんだろう。
でもそのお陰で、僕はじっくり銘柄を見られる。黒いラクダ。引かれた矢。オリーブに鳩。
ちょっと前までタバコにうるさいヤツがいて、このタバコ屋に通っていた。

「『あばばばば』って吸いたくてね」
「何の話?」
「おいおい。タバコ屋の前で『あばばばば』って言ったらバットに決まってるじゃないか」
「バット?」
「ゴールデンバットだよ」
全く彼はどこから仕入れてくるのかよく分からない雑学の蒐集家で、その日はゴールデンバットなるタバコの話をしているらしい。
「中原中也って授業でやったろう」
「聞いたことはあるような……」
「有名人だぜ? 杜甫、李白、白居易が唐の三大詩人なら、中也は昭和の詩を一手に担った詩の聖人さ」
彼はいつもこんな調子だ。僕の知る有名人はテレビに出てくる人達なんだけど。彼は逆に彼らを知らない。
「中也の慣れ親しんだそのゴールデンバットを、僕は吸いたいんだよ」
「ふーん」
憧れてるんだろうな。彼はカッコつけ屋だから言わないだろうけど。
話を聞いていたのか、店の奥からお爺さんがのそのそやってきた。
「ゴールデンバットは無いねぇ」
「そんな……」
彼はいつも嘯く。そんな、なんてそれっぽいことを言ってみて強がるけど、ほんとはゴールデンバットを吸いたかったんだ。
「……。それじゃ、ピース缶ください」
「はいよ」
彼はピース缶を受け取った。
「タバコなのに缶に入ってるんだ」
「うん。内蓋があってね、開けるとほんのり上品な匂いがするんだよ」
「ふーん」
「かの三島由紀夫が愛したタバコでね……」
そんなやり取りを、僕たちは毎週やっていた。

チリンチリン――
僕は呼び鈴を鳴らした。
「お客さん久しぶりだね。あれっ? いつもの元気な人はいないのかい?」
「ええ。オンライン出社ってやつに切り替わったらしくて、毎月引っ越しては色んなところで仕事をしてるんです」
「へぇ……。全然想像つかない仕事だね」
「ライターをやってるんです。ゲームかなんかのストーリーを作ってるらしくて」
「作家さんか!」
お爺さんは頭を降った。小説家か何かと勘違いしてるのかな? まぁ、同じようなもんだろうけど。
「物知りだったからねぇ。盗み聞きするのが趣味だったんだよ」
お爺さんはニカッと笑った。
「ごめんね。久しぶりに来てくれたからつい話しちゃったよ。それで、何を買うんだい? 」
「缶ピースください」
群青にオリーブと鳩が描かれた缶を差した。
「おっ。ヤニ食いだねぇ」
「これにハマっちゃって。全部あいつのせいなんですよ」
ポケットから三島由紀夫の文庫本を出して見せると、お爺さんはまた、ニカッと笑った。

11/8/2023, 3:16:57 PM