sairo

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ひらひらと、目の前を黒い蝶が飛んでいく。
思わず眉を顰めた。
黒の蝶は不吉の徴《しるし》だと言われている。人が亡くなった時、黒い蝶が飛ぶという。

「――バカらし」

信じてなどいなかった。ただの迷信だと思っているが、それでも蝶を目で追うのは、近所に住む高齢の男性が数日前から容体が悪化していたことを思い出したからだ。
子供の頃から何かと目をかけてくれ、優しかった男性。気のせいだと自身に言い聞かせるが、かなりの高齢だったのだから仕方がないとどこかで諦めてしまうのを止められない。
黒い蝶は、ゆっくりと山の方へ飛んでいく。それを一瞥し男性の家へと足を向けるが、数歩歩いて立ち止まった。

あの蝶は、何処へ向かうのだろう。

何故か無性に蝶の行く先が気になった。
男性の家か、蝶を追うのか。逡巡して、結局蝶を追って歩き出す。
蝶を追った方が後悔がない。理由の分からない感情に突き動かされるように、迷いなく歩き出した。



蝶を追って山の中へ足を踏み入れ進んだ先は、昼間でも薄暗くじめじめとした場所だった。

「うわっ……!」

生い茂った木々が陽を遮っているためか地面はぬかるみ、歩く度に足を取られかける。転ばぬように慎重に歩を進めていると、追いかけていた蝶がとある木の枝葉に擦り寄るようにして飛んでいるのに気づいた。

「――あ」

思わず声が漏れた。
見つめる先、黒いはずの蝶の翅がほんの少し白くなっている。よく見れば、蝶は葉についた水滴を翅に落とし黒を洗い流しているようだった。
元から翅が黒かった訳ではないらしい。白くなっていく翅を見て蝶の正体に気づき、目を瞬いた。

「モンシロチョウ?でもなんで……」
「それはね、お迎えに行ってたからさ」
「っ!?」

不意に背後から聞こえた声に驚き、振り返る。
いつの間にか苔むした大きな岩の上に、見知らぬ子供が座ってこちらを見つめていた。

「珍しいこともあるもんだ。この子が生きた人間を連れてくるなんて」

くすくすと、楽しそうに子供が笑う。見た目は幼い子供だというのに、その笑い方は老成した大人のように見えた。

「お迎え?」

気になることはいくつかあったが、その中で一番疑問に思ったことが口をついて出る。
お迎えとは、やはり男性は亡くなったということだろうか。

「そうだよ。魂が迷わないように迎えに行くんだ。前は本当に黒い蝶が迎えに行ってたんだけど、人間が忌み嫌って追いやってしまってね。だからあの子たちが代わりにお迎えをしてくれているんだよ」

ひらひらと辺りを飛ぶモンシロチョウを見ながら子供は言う。
同じようにモンシロチョウを見ながら、男性の穏やかな微笑みを思い出していた。
もう会えない。今までの感謝も、別れの言葉すら言えていなかったことに気づいて、胸が締め付けられるように痛んだ。
そっと胸に手を当て俯く。気を抜けば、泣いてしまいそうだった。

「――君は優しい子だったんだね」

ふと、呟く声に顔を上げた。さっきとは違う、まるで男性のような優しい笑みを見て思わず息を呑む。

「いつも気にかけてくれていたって、彼が感謝しているよ。いつも笑顔で挨拶をしてくれて、色々と手伝ってくれたいい子だって褒めてる」
「え……?」

まるで、男性がそこにいるかのように子供は話す。
辺りを見るが、当然男性の姿はない。どういう意味だろうかと眉を寄せ、けれどお迎えという言葉を思い出し納得した。
見えないだけで、男性は今ここにいるのだろう。

「ちゃんと顔を見てお別れが言えなかったのが少し心残りだってさ。なら、折角ここにいるんだし、今回は特別に見えるようにだけしてあげようかな」

そう言って子供は座っている岩の苔を手に取った。手のひらで転がして、小さく笑うとそっと苔に息を吹きかける。

「――っ!」

咄嗟に目を閉じた。
自分と子供との間には距離があるはずなのに、苔はふわりとこちらに向かって飛んでくる。目に入らないようにと閉じた瞼に、苔が張り付く感覚がした。

「目を開けてごらん。見えるようになっているはずだよ」

子供の言葉に、恐る恐る目を開けた。
辺りを見るが、男性の姿はない。けれど目を閉じる前と、明らかに違うものが一つあった。

「黒い、蝶……」

翅を黒く染めたモンシロチョウではない、本物の黒い大きな蝶。
無意識に蝶に向け、指を伸ばす。ひらひらと優雅に飛ぶ蝶が指先に止まり、ゆっくりと翅を広げた。

あぁ、彼だ。

何故か、そう思う。じわりと視界が滲みそうになるのを堪えながら、蝶に向けて笑顔を浮かべた。

「今まで、ありがとうございました」

震える声で、感謝の言葉を述べる。ありがとうの言葉しか思いつかないことにもどかしさを感じていると、蝶は静かに飛び立っていく。
一度止まり、蝶がこちらを向いた気がした。

「っ……!」

蝶の姿が揺らぐ。大きく広がって、うっすらと見慣れた男性の姿へと変わっていく。
穏やかな微笑み。彼の人柄を表しているような、いつも変わらないその笑顔。
丁寧にお辞儀をされ、滲む視界の中で同じように礼をした。ぽたりと、地面に数粒雨が降る。

「ありがとうございました」

頭を上げた時にはもう黒い蝶の姿も、子供の姿も消えていた。
まるで最初からいなかったかのように、何も残さずに。

けれど確かにここにいたのだと、ひらりと飛ぶモンシロチョウがそれを教えてくれていた。

5/11/2026, 5:41:13 PM