香草

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「やさしい雨音」

雨靴を履き、クリーム色の傘を手に取る。
今日は午後から雷が鳴るらしい。バイト休もうかな。
シフト30分前で連絡するのはさすがにだめだな。
最近雷の頻度が少なくなっている気がする。異常気象だ、地球寒冷化の影響だとテレビで騒がれてたけど実際、雷がなくなればどれだけ嬉しいだろう。
この世界は雨しか降らない。太陽が存在するのは本やアニメの中だけ。
常にシトシトザァザァといった雨音が聞こえてきて外に出る時は傘を手放せない。湿度も高いからそのうち魚みたいにエラ呼吸できるようになるんじゃないかと思っている。
家を出るとすでに薄黒い雲からゴロゴロという音が鳴っている。しかし傘を開いてしまえば途端に雲は見えない。
ザァザァという滝のような雨音もお気に入りの傘に落ちれば少しは可愛くなる。
私は足元を見ながら歩いた。
傘を差す人が多いので標識は道路に埋め込まれている。信号も看板も広告も足元で強い光を放っている。
歩く方向も決まっている。傘で視認性が悪く衝突事故が多いからだ。
華やかで綺麗な道を整列して歩く人々、これが日常だ。

灰色の世界には場違いなポップなキッチンカーが見えてきた。案の定客は誰もいない。
店長が口をぽかんと開けてぼけーっと突っ立っている。
「おはようございます。店長」
「あ、おはよお。やっぱり今日はドーナツ売れそうにないねえ」
傘で顔が見えないのに傘の色と声で私だと分かる。この世界の人はそうやって人を認識する。
「今日午後から雷らしいですよ。どうせ客来ないんで帰ってもいいですか?」
「えーだめだよ?ドーナツ売れなくても僕の喋り相手をしなきゃでしょー?」
「いい大人が何言ってんすか」
そんな冷たいこと言わないでよお、という声を無視してキッチンカーに入る。
意外と中は広く、ドーナツを揚げる調理場と荷物置き場がある。砂糖と油のねっとりとした甘い匂いが充満している。
店長お手製のピンクのエプロンを身につけると、店長が売り場から顔を出した。
「じゃあ僕、休憩行ってくるから店番お願いね」
喋り相手しろとか言ってたくせに結局コンビニに行きたかっただけかい。
私は白い目で店長を見た。

売り場に立てば、人々の歩く道が見える。
普段は足元しか見てないからどんな人が歩いているのか分からないけれど、ここから見るといろんな情報が入ってくる。その情報で妄想するのか私の密かな楽しみだ。
例えばあの小さくて白とピンクの傘を持っている人ならハイヒールと水色のタイトスカートしか見えないけど、きっと髪の毛はふわふわくるんとしていてぷっくりした口紅をつけているんだろう。それでいてとても早足で歩いているからデートか何か待ち合わせに急いんでいるんだろう。
そして、あの透明な傘の人。3人くらい入っても濡れなさそうなほど大きな傘だ。よく見るスーツのズボンだけど、裾がかなり濡れている。そして歩くスピードがまちまちで、不安げにキョロキョロしている影が傘越しに見える。てことはこの人はきっとこの街に来てまだ浅いんだろう。もしかしたら出張か何かで来ていて迷子になっているのかもしれない。オフィスビルの看板は道に書いてないことが多いから。
そんな妄想をしながらポケーっと立つ。雷の音が強くなった気がする。
すると向こうから若草色の傘が近づいてきた。

「いらっしゃいませ」
平常心を装いつつにこやかに声をかける。客が来ないからといって完全に油断していた。若草色の傘は店前で立ち止まる。
「今日はオールドファッションと、このチョコとホイップのやつにしようかな!」
高くも低くもなく爽やかなトーン。傘の色にぴったりな声だ。妄想の中ではかなりのイケメンになっているのだが、現実は知らない。
「はい!少々お待ちください」
ドーナツを包む手が震える。彼が初めてドーナツを買いに来た時からなぜか心がそわそわする。
彼は毎日ドーナツを買いにくる。店長が「あの子、絶対君に会いに来てるよ」と言ったから余計に意識してしまう。
「今日の雷はかなり激しいらしいよ。お姉さんも気をつけてね」
「あ、ありがとうございます」
ドーナツを渡せば若草色の傘は遠ざかる。
踏み込んだ話はしない。たった数分の客と店員の関係だ。
だけど傘が見えなくなっても耳の奥で雨音がこだましている。彼の傘に落ちた優しい雨音が雷なんて聞こえないほどに響いているのだ。


5/26/2025, 11:26:27 AM