創作「あじさい」
彼はまさにあじさいだった。置かれた環境で振る舞いを器用に変え、他人からの厳しい視線や言葉にもじっと耐え忍んでいた。降りかかる雨に耐えるあじさいのように、淡々と。
僕は彼と何度か話す機会があった。といっても天気の話から始まり、趣味や好きなものなど無難な内容をお互いにぽつぽつと繋げる。道や廊下で顔をあわせれば、会釈を交わす。その程度の関係だった。
ある日の午後、僕はどこかの店に傘を置き忘れてしまったことに気づいた。帰ろうにも雨足は強まるばかり。どんよりした空を軒先で見上げ、雲が途切れることを願う。すると、軽く肩を叩かれた。
「傘、貸しますよ」
彼であった。 濃い青の傘を差し出して柔和な笑みを浮かべている。反射的に傘を受け取った僕ははっとし、借りても良いのか尋ねた。
「大丈夫ですよ。折り畳み傘があるので」
「ありがとうございます。明日、返します」
少し恐縮しつつ傘を開く。歩きかけた彼は足を止めて僕を見る。
「そうだ、一緒にお茶しませんか。雨の日限定のケーキを出すお店があるので」
普段、付き合いの悪い僕には珍しく彼の誘いに乗っていた。単に、ケーキに興味が引かれただけではないらしい。彼と心から話してみたいと、柄にもなく考えていたのだった。
雨の音で目が覚めた。僕は彼の腕の中にいる。 彼の言葉はあじさいの葉のようだ。一言でも飲み込めば、激しい恋の病に侵されてしまう。
彼は僕だけのあじさいだ。
(終)
6/13/2024, 11:39:29 AM