:紅茶の香り
アールグレイとチョコレートケーキが口の中で混ざり合ったあの味と、鼻から抜けていくあの香りを、もうそろそろ忘れてもいい頃だと思うんだ。
だって美味しいからそろそろ食べたいじゃないか。
でも駄目なんだよ。
あの組み合わせは駄目なんだ。
自分が過去にいるのか今にいるのか分からなくなる。
夜中、カーテンが閉められていて、リビングだけ明かりがついてる、冷蔵庫の唸るようなブーーという音と、秒針の音と、お皿とフォークのぶつかる音と、紅茶の香り。
そのケーキ食べたいと強請ると「ちゃんとこの後歯磨きする?」と尋ねられ、何度も頷いて「一口だけね」と、こっそり分けてもらった。
愛してくれた、あの瞬間、確かに。
どうしてそんなに寂しそうに愛してくれるのか。
嬉しかったよ。これを愛おしいと言うのかもしれない。なかなかどうして、貴方は、毒のような人だ。
今でも毒が全身を巡っている。なんて呪いだ。
実に、 嬉しいよ。もちろん。
“優しい”おまじないをかけられたんだ。
無糖のアールグレイが苦いと思ったことはないし、チョコレートケーキが苦いと思ったこともないよ。どちらもきっとチープなものだったんだ。濃厚とは程遠い味がしていた。
未だに安っぽい味が好きだ。ちゃんと茶葉をすくいとってそこにお湯を注ぐより、安価で手に入るその辺に売ってるようなティーバッグに湯を注いで飲むほうが、デパ地下にあるスイーツ店で買うよりチェーン店の回転寿司で頼めるようなチョコレートケーキを食べるほうが、よっぽど
よっぽど 忘れてくれ。
もう忘れていいと思うんだ。プレゼントで貰った真っ黒な缶に入った紅茶の茶葉は苦くて、クリスマスに食べたデパ地下のケーキは味が濃すぎて。嫌だ、嫌だなあ、本来美味しかったはずだったよ。
食べられないんだ。
頭が真っ白になって脱力してしばらく蹲ってしまって。
ばかだなあ
ケーキ食って紅茶飲んでるだけでなんでパニックなんか起こしてんだと思って、なんとなく何の紅茶を飲んでるのか確認した。いつも適当に淹れていたから自分がどんな紅茶を飲んでるのかいちいち気にしてなかったんだ。アールグレイティーって書かれてた。幸せな気持ちで食べてたケーキもチョコ味だった。ああ嫌だなあ馬鹿だなあ、馬鹿だよお前。すっかり忘れられてたのに、忘れるにしては大事にしすぎてたんだ。
食べられなくなった。未だに、ケーキは怖いなぁ。お砂糖は幸せの味がする。確かに幸せで愛に溢れた味がするんだ。それが寂しい。泣きながらケーキを食べるなんて御免だ。なんで幸せと寂しさはセットなんだ。愛おしいと寂しいがセットなんだ。結局ずっと愛しい。
かなしいね。それも愛おしいさ。だから忘れてしまえば楽になれるという気持ちと忘れたくないという気持ちが揺れ動く、とどのつまり呪いにかかった気でいて意思が弱い。
紅茶の良い香りに釣られて起きてたんだよ。
ダージリンは味が濃くてちょっと苦手だったんだ。でも砂糖を入れると気持ち悪くなって飲めなくなるから、 どうしていたかな。当時からそれほど味覚が鋭くなかったから、濃いなぁと思いながらスルーしていたんだろう。
だって貴方の紅茶をわざわざ横取りしていた。
「そんなに好き?」
好きだったよ。ずっと好きだ。
できればアールグレイが
くるくる、あちこち記憶が巡る。いつだったか、紅茶を口にしたときと夜中のケーキタイムは同じ頃だったろうか。引越し前だったから、だいたい4年の間のどこかだ。誤差の範囲内で、これほど覚えているのだから、きっと強烈だったんだ。いや、これはむしろ憶えてないのか?
優しい紅茶の香りにどうやら惑わされている。
今日も今日とて適当なティーバッグでアールグレイを飲んでる。単品なら味わえるよ。チョコレートケーキと一緒じゃないから大丈夫。
もうそろそろ忘れてしまってほしい。忘れて、ちょっと値が張る紅茶とケーキくらい美味しく口にできるようになりたい。のか?
結局忘れようだなんてしたって本気でするつもりもないんだ。だって好きだった。
憂いを帯びた優しく柔らかな愛情が体中を掛け巡っているというのに、どうして忘れられるものか。
10/27/2024, 6:08:20 PM