sairo

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「旅に出ようと思って」

不意に呟かれた言葉に、顔を上げた。
カレンダーに視線を向ける。四月一日。そういうことかと一人頷いて、読んでいた雑誌に視線を戻す。

「あぁ、うん」

曖昧に返事をした。それ以上何かを言われることもなく、話はそれで終わったように思えた。
次の日、どこにも姿がないと気づくまでは、会話をしたことすら忘れていた。
どこを探しても見つからない。
あの日から、そろそろ一年が経とうとしている。



ぐすぐすと泣く声を背中に聞きながら、その重さに何度目かの溜息を吐いた。
負ぶさりお化けとはこういうモノだろうか。現実逃避気味に考えながら、カレンダーに視線を向けた。
四月一日。彼の弟が姿を消して、ちょうど一年だ。
彼が言うには、その日も弟は普段と何ら変わらない様子だったらしい。数日前にエイプリルフールを知って、だから嘘をついてみたくなったのではないかと、思ったようだった。

「何でだよ……いつもと変わんなかったじゃん……だから、嘘だと思ってたのに。なんで……」
「はいはい」

何度も繰り返し聞いた愚痴を聞きながら雑誌を閉じ、コーヒーでも入れようと立ち上がる。
落ちないように、けれどこちらに負担を与えないように背中に張りつくのはさすがというべきだろうか。
弟がいなくなってから、彼は外に探しに出る以外の時間はこうして背中にしがみついていることが多くなった。最初は同じように心配し、彼を可哀そうに思ったものだが、一年も経つとどうしても対応が雑になってしまう。
残された彼の気持ちはよく分かる。旅に出るといなくなってしまった弟の無事を心配するのは当然だ。この世界は決して狸《かれら》には優しくないのだから。

「今頃、どっかで腹を空かせてたりして……車に轢かれてたらどうしよう……」

彼の泣き言を聞きながら、この不思議な兄弟に出会った日のことを思い出す。
あの日も確か四月一日だった。
仕事の帰り。近道をしようと横切った公園の片隅で、身を寄せ合って震えていた兄弟のどこか怯えたような瞳。何故か放っておけなくて、こっそりと家に連れ帰ってしまった。
あれから数年経つが、未だに兄弟が話すことも、時に人の姿に化けることにも完全に慣れない。すべてはエイプリルフールの幻で、朝目が覚めて四月二日になったら消えてしまうのではないかと、不安に思うことすらある。

「もう、帰ってこないのかな……」

ぽそり、と小さく呟かれた疑問に、返せる答えは持っていなかった。
小さく息を吐く。
仕方がない。部屋に戻ったら目一杯に甘やかそうと、コーヒーを淹れながら苦笑する。
その時、インターホンが急な来客を告げた。

「誰だよ……」
「さあ?今日は荷物の配達はないはずだけど」

淹れたコーヒーを置いて彼を背中にしがみつかせたまま、玄関に向かう。
彼を背中から離そうとしても離れないことは、この一年身に染みて理解していた。

「どちらさまですか?」

そう言いながら、ドアを開ける。不用心ではあるが、彼が何も言わない時は危険がないと知っている。
けれどドアを開け、来客の姿を認めた瞬間。相手の顔を見つめたまま、動けなくなってしまった。

「あ……」
「ただいま」

穏やかに笑う、人の姿に化けた彼の弟。動けない自分の手を取って家の中に入ると、そのまま迷わずに部屋へと向かう。
そして同じように動けないでいた彼を背中から引きはがし、ぽいと投げ捨ててしまった。

「痛っ……!?」

痛みに呻く彼を気にせず、弟は軽く手を引いた。彼のことは気にかかるが、仕方がないと促されるままに座る。
途端に狸の姿に戻り膝に乗って甘え出され、複雑な気持ちになりながら擦り寄る頭を撫でた。

「おい!一年間連絡一つなくふらふらしてたくせに、急に戻ってきやがって!しかも、何で俺を投げ捨てたんだよ!」
「旅に出るとは言った」
「エイプリルフールに言うやつがあるか!……というか、今まで何処に行ってたんだよ」

人の姿に化けた彼が、文句を言いながら背中に圧し掛かる。うっ、と小さく声が漏れるものの、兄弟が気にする様子はない。思わず文句を言いかけ、しかしその前に兄弟が揃っていた時は大体こんな感じだったと思い出し、言えない文句の代わりにそっと肩を落とした。

「いろいろ?海とか、山とか……あと、同じような狸の所で話を聞いてた」

首を傾げて弟は言う。
どんな話を聞いたのだろう。気になって視線を向けると、真っすぐにこちらを向いた弟と目が合った。
人の姿に化けている時はそれなりに感情豊かではあるが、こうして狸の姿に戻られると何を思っているのかは分からなくなってしまう。
ただ何となく、その目を少しだけ怖いと思ってしまった。聞いてはいけないような気がして話題を変えようと口を開くが、その前に彼がさらに背中に圧し掛かり弟に声をかけた。

「どんな話をしてたんだ?」
「皆で幸せになれる方法。どうすれば神隠しができるのか、教えてもらった」

思わず、息を呑んだ。
戸惑い彷徨う視線が、偶然カレンダーを見た。四月一日。エイプリルフールの言葉が思い浮かぶ。

「それって……エイプリルフールの嘘?」

弟は何も答えない。
首を傾げて、小さくふふ、と笑っていた。

4/2/2026, 5:25:07 PM