※BL要素が少しだけありますので、苦手な方はご注意ください。
飽きるほど頭上に降り注がれていた雨粒が、ふいになくなった。
「……風邪、引きますよ」
少し震えている声と下がった眉尻が気弱な印象を与えてくる男だった。こっちより年下だろうか。
「ビビるくらいなら声かけなきゃいいのに」
「む、無理ですよ。だってあなたがいるの、僕の部屋の窓から丸見えなんです」
彼が顔を向けた先はアパートの窓だった。座右の窓はカーテンがしまっているから空室なのかたまたまいないのか、とにかく彼にとっては悪いタイミングだったようだ。
「かれこれ一時間はここにいますよね。その、どうかしたんですか?」
どうかした、か。
もう自分でもどうすればいいのかわからなくなってしまった。
とにかく捨てられたくなくて、それだけあいつのことが好きでたまらなかったから、出ていくあいつの背中を必死で追いかけた。
あいつは一度も立ち止まってくれなかった。挙げ句の果てにはタクシーを呼んで、すぐさま視界から消えやがった。
でも、この足は止まらなかった。目的地なんて当然わからない。スマホの地図を見る余裕もなかった。
そして、とうとう止まってしまった。
――動けない。やっとできた同性の恋人に捨てられた現実を受け止めたくなくて、逃げ場所も見つからなくて、一歩を踏み出すのも怖くて、まるでバッテリーの切れたロボットのように全身が動かなくなった。
頭のどこかでは、残酷にも今の状況を繰り返し流している。全く、理性というのは時に一番の脅威だ。……大人しく聞けるならとっくにそうしている。
「時間が足りないんだな」
「え?」
「時間が、ほしいんだ」
赤の他人にこんな独り言を聞かせるなんて身勝手だ。
それでも、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。こんな大荷物、ひとりで抱えるのはつらすぎる。
「ええと……なにかにハマってるけど忙しくて、時間が足りないってことですか?」
改めて彼の顔を見ると、はっきりとした戸惑いが伝わってきた。確かに意味がわからなすぎるだろうが、だとしてもそんな答えが返ってくるなんて予想できない。たまらず吹き出してしまう。
「ちょ、ちょっと笑うなんてひどくないですか?」
「だって、意味わからないはずなのに律儀に返事してくれるからさ」
「そりゃそうですけど、あなたがあまりにも辛そうな顔してるからよっぽどの理由なんだなって」
「それでさっきの内容か」
「僕ならそうですから」
ちょっとでも、笑えるなんて思わなかった。彼にはいい迷惑だろうが、声をかけてくれたのがこの人でよかった。
「……いや、辛かったのは本当だから、少し、楽になったよ。ありがとう、君のおかげだ」
たぶん知り合いからはお人好し、なんて言われているに違いない。そのお人好しに自分はとても救われた。
「いい加減、大人しく帰るよ。あ、ごめん、カサ借りてもいいかな?」
「あ、いえ、別にもらってっても構わないですけど……その」
「そう? 最後まで世話かけてごめんな。ありがとう」
ビニール傘をありがたく受け取ろうとしたが、彼は不完全燃焼とでも言いたげにこちらを見つめている。まあ、こんな不審だらけの男相手だ、わからなくもない。
「帰る場所、あるんですか?」
声色は、柔らかかった。
なのに、大きな刃物で胸を一刺しされたような気分に陥る。
「あ、るよ。さすがにね」
あるわけがない。あいつの家を追い出された自分に、帰る場所など、ない。
そうだ、家を見つけなければ。あの街ではなく、もっと遠い、遠いところへ。
「……お困りなら、しばらく僕の家に泊まります?」
さすがに動揺を隠せなかった。
彼は少しだけ唇を持ち上げて、空いた手で頭を軽く掻きながら探り探り続ける。
「なんか、ほっとけなくて。ここで見送ったら、冗談抜きで死んじゃいそうだなって思ったんです」
もちろん自覚はなかったし、そのつもりもなかった。けれど、あくまで「つもり」だったのかもしれない。
今は、自分自身が一番信じられないから。
「お金さえきちんと払ってもらえれば、僕は構いませんから。必要以上に干渉もしませんし。どう、ですか?」
不自然にならないよう、ゆっくり視線を地面に向ける。
縋っても、いいのだろうか。ただ巻き込まれただけの彼に、一時的だとしても、利用するような真似をしてもいいのだろうか。
「君、呆れるほどお人好しだねって言われない?」
ぎりぎり、震える声を堪える。
「ほっといてください。言われますけど」
とっさについた憎まれ口にも、彼は優しかった。
お題:雨に佇む
8/28/2023, 9:13:08 AM