「結婚おめでとう」
耳元から暖かい香りが漂ってくるようだった
いつもの彼女の匂い
ホワイトリリー、ジャスミン、ピーチ
切ったばかりのイチゴの匂い
卵を炒めた時の新鮮な空気
温もり溢れる夕ご飯の香り
今や最愛の人にだけ捧げられる彼女の尊い全てを思い、気づくと私は目を閉じていた
「どうもありがとう」
幸せに満ちた軽やかで豊かで弾むような声
私が1番聞きたくて、
一生聞きたくなかった声
「それで、住所って今も変わってない?」
「…ごめん、変わっちゃった」
「そうなの?今どこに住んでるの?数年会ってないものね、式じゃなくて時間あったら今度ご飯食べに行かない?」
「そんなのいいよ、
新婚なんだから旦那さんとの時間を大事にしな」
「なあにそれ、
私はいつでも空いてるから、好きな時に連絡して」
そう言われて私の心臓はズキリと傷む
待ち望んでいたはずの優しい言葉のはずが
あまりにも来るのが遅すぎた
時を得て今、私を突き刺す釘と化してしまった
「いいよ、本当に、忙しいから」
「また?あなたはいつも生き急いでる、そんなに焦らなくたっていいのよ」
グサグサグサグサ
あまりの痛さに思わず心臓を抑えた
最も喜ばしくて最も望ましくない幸福を目にして
正気でいられる自信がない私の脳は、
暗闇の目の奥で ある情景を映し出した
「あ……そう、私さ海外に行くんだ、だから会えないよ、式にも多分、ごめん」
「海外?そんなに遠く?どのくらいの期間?」
口からでまかせを言うのは慣れっこだった
考えるより早く口が滑るように動く
「ん〜北欧の方に、
期間は決めてない、居られるだけいようと思って」
「またそんな無鉄砲に……」
「私の得意技、だからごめんね」
「じゃあ手紙を書いて」
「は?」
「だって、なんだか不安なんだもの、
昔からそうだったけど、こうして話している間もあなた、なんだかこの世にいないみたい」
「だからって、手紙を?」
「うん、北欧、あなたは何回も行ってるでしょうけど、私は行ったことがないのよ」
しまった、嘘も百回言えば真実となる、
これが百回目だったろうか
「あ、ごめんなさい、あの人が呼んでる、
じゃあ、待ってるね。あなたの手紙を」
私を辛い現実に呼び戻したのは
遠くから響く聞きなれない太い声
ブツリ、
ツーツー…ツーツー………
無情に響く定期的な音に合わせて
私の心臓は動いていた
「大好きな君へ」
手紙のタイトルはそうしよう
そう心に決めたはずなのに
北欧の大地に1歩踏み入れた途端に
その度胸は消え失せてしまい、
洒落た雑貨屋で見つけた
ノルディックモチーフの便箋に
世間並みの祝いの言葉と
くだらない土産話を書き連ねて
異国の凍えるポストに手放した
この世界にとっても
貴方にとっても
私はただの小さい小さい女、
ただそれだけの存在に過ぎないのだ
3/5/2024, 6:40:49 AM