鬱蒼とした樹海の奥にも梅雨はやってくる。陰鬱とした空と湿った草木の匂いは、昼夜問わず暗がりに沈む御殿から住人の気配を一層失わせていく。鬱之宮は自室の窓辺でため息を付いた。毎日変わらず眺めている外の景色だが、今日は一段と重苦しい。こうなってはただでさえ落ち込んでいる自分の精神もきっとどん底のまま戻れないだろう。そんなつまらないことばかり考える。鬱之宮は自分の脳髄の造りが心底嫌いだった。
(このままどうせ一人きり……)
鬱之宮は思った。ほぼ無意識だった。
突如部屋の隅の押し入れがガタガタと鳴った。鬱之宮はビクリと肩を震わせ、すぐさま弾かれたように襖へ飛びついた。戸を開いた瞬間、暗闇の奥から伸びた赤茶け色の縄が、鬱之宮の手を捉えて奥へ引っ張り込んだ。彼女の姿が音もなく暗闇に消えると、そのまま襖はバタンと閉じた。
「おぉ…愛しき我が"おうつ"…。今宵も会いに来たぞ。」
青白い顔の血まみれの貴族が話しかけてくる。鬱之宮は生気を失った頬を紅に染めて見つめる。
「呪髪親王様……お会いしとうございました…!」
鬱之宮は飛び込むようにして貴族の胸にすがる。貴族の首には赤茶けた縄が巻き付いていた。首吊縄呪髪親王(くびつりなわのろいがみしんのう)――それがこの貴族の名であり、鬱之宮の想い人である。
「今日はまた新しい縄を編んだので、お前の首に似合うかと思って見せに来たのじゃ。」
そう言うと呪髪親王は袖口から青紫色の縄を取り出した。鬱之宮は渡されるままそっと手に取る。仄かに花の香がする。
「これは…?」
「梅雨の時期ゆえな、紫陽花を素にして編んだのじゃ。お前の首に青い紫陽花が映えたら美しかろうと思ってのう。」
呪髪親王は柔らかな声で言う。鬱之宮は口元をフッとほころばせ、照れくさそうに俯いた。
「親王様の縄は、いつも私に寄り添って下さいます。」
鬱之宮の言葉に呪髪親王はそっと恋人の髪を撫で、渡した縄を静かに取ると、鬱之宮の首に頭からふわりとかけてやった。
「いつでも私はお前を想っておる。私の縄をかけたお前は一段と綺麗だ。」
甘く囁く声を聞きながら鬱之宮は親王の胸に抱かれる。暗闇の中で2つの歪な青白い影が寄り添い合う。
「……最期を超えても愛おしいぞ。おうつ…。」
御殿の外。日暮れの紺の庭を幾千の銀の矢が打ち付ける。
6/13/2023, 2:19:06 PM