心配なんて柄じゃ無いと思った。その目的で彼女の元を訪れるのに、今の自分は全く相応しくないとも知っていた。
それでも、不安に思ったのだから、ここに来たのは間違いじゃ無いだろう。
古いアパートの一室は、鍵もかかっていなかった。ワンルームの家だから、玄関をくぐれば全てが見えた、察せられた。
カーテンは閉まっていなかったけど、この時期には珍しい厚い曇天が外には広がっていて、安い白熱灯はその役割さえ放棄して、部屋のなかを明るく照らすものは何も無かった。
吐く程飲んだのか、部屋中に安いチューハイの缶が散乱し、吐瀉物とアルコールの臭いが立ち込める。窓際のキャンパスには描きかけの作品があっただろうに、赤い絵の具で雑に塗り潰されており、破れた厚紙は部屋のそこかしこに見付かった。
アトリエでもあるから色には困らない筈なのに、闇すら存在しないその部屋は、唯一様に灰色だった。
彼女は、そんな無色の部屋の片隅で、うつ伏せに潰れて嗚咽をあげていた。
『入賞者は──』
机の上だ。この全てを作り上げた残酷な文字が、無機質な明朝体でコピー用紙に羅列されている。その机のすぐ側に、或いは彼女が今まですがってきた筈の古いガラスのトロフィーが、粉々に砕けて鈍く光っていた。
それもその筈。それは彼女が欲しかったトロフィーではないのだから。
それもその筈。彼女が欲しかったトロフィーは、自分の手の中にあるのだから。
「…………って」
しゃがれた声だった。やっとの思いで出したのかもしれない。
──待っててよ、お願いだから。
「────は、」
そんな情けない声を聞かされたから。胸の内に言葉が湧くのも早かったのだろう。
塗り潰されたキャンパスが視界に入る。やっぱり、来て良かったかもしれない。
怒りのままに、声を発したつもりだった。もっと冷めた声色になると思った。
「じゃあ、待っていようか」
それが思いの外優しく響いて、我ながら酷い奴だと笑いたくなった。随分頭に来ていたらしい。
伏せられた顔が勢いよく上げられる。顎はわなわなと震えて、既に青い顔から更に血の気が引いていく。漸く自分を捉えたその眼は、大きく見開かれたその瞳は、今しがた彼女自身が発した言葉への後悔と、自分の答えに対する絶望をありありと映した。
構うものか。一つ微笑んで、踵を返す。
ねえ、待って、違う、そうじゃない。
聞こえる声に返事をする必要がどこにあるだろう。あんなものか。もう二度と期待などするものか……期待?
そう、そうか。自分が感じたのは、彼女の作品が観られなくなる事への、不安だったのか。
ああ、残念だ。好きだったのに。
乱暴に扉を閉めて、鉄さびた階段に足をかけようとした時。
背後から、慟哭が上がった。
咄嗟に口元を覆った。最低だ、本当に。それでも。
それでも、口角が上がるのを抑えられない。
そうだ。そうだよ。泣き叫べ。踠き、苦しめ。血涙を流して、また這い上がってこいよ。
待ってて、なんて。望んでもいない事を口にするんじゃない。そんなの、誰よりもお前が、許さない癖に。
先に行くさ。同じように、足掻いて、踠いて。だから、だから。
お前が走って、追い抜かせよ。
【待ってて】
2/13/2023, 4:57:38 PM