提灯の灯り一つを頼りに、少女は彼と廃村の中を歩いて行く。
慣れない下駄が幾度も足を掬いかける。家の中から急に外へと飛ばされてしまったため、靴を履いていなかった少女に彼が渡したものだ。半ば引き摺るようにしながら前を行く彼の背を、少女は無言で追い続けた。
ふと、誰かの囁く声がした。
立ち止まり、辺りを見渡す。だが暗がりにかろうじて見えるのは、朽ちた家の残骸ばかりで、人の姿は影すら見えない。
「先生」
「気にするな。ただの過去を再現した声だ」
「過去…?」
崩れ落ちた、元は屋根だろう木片を見遣る。昨夜見た夢の内容を思い返し、か細い声で先生、と呼びかける。
「夢を、見たんです。今まで見た夢と違う、影絵みたいな夢でした」
「それはこの村の過去の夢だな。実際に起きた、過去の祭の光景だ」
少女を振り返らずに彼は答える。
その声音が、夢で聞いたあの翁面の声と重なって、少女は微かに体を震わせた。
「――小さな女の子でした。怖いとか、嫌だとか。そんな事、全然考えてないような…当然、みたいに受け入れているみたいだった」
夢で見た闇に飲まれていく子供の目を、少女は今も鮮明に覚えている。脳裏に焼き付いて離れないあの静かな目は、平穏を生きた少女には異質でしかなかった。
ひそり。誰かが囁く。ふふ、と笑う声がした。
「まあ、そうだろうな。ここの村では、祭で選ばれる事は喜ばしい事だと教えられて育つ。選ばれた者はシキ様達の元で、恵みの手伝いをすると信じていた」
振り向いて、彼はでもな、と言葉を続ける。
その目は少女の背後、かろうじて形が残っていた家へと向けられていた。
「表向きは信じていた振りをしていても、どこかでは悔いていたのか。それとも忘れていく事が怖ろしかったのか…その子供の親は、その時の祭を書き残した。子供が祭を楽しみ、そして選ばれて社に連れて行かれるまでを詳細に」
ひそひそと、誰かの囁きが過ぎていく。少女の背後で、何かを嘆く声がした。
「幸か不幸か、それは失われずに残り。興味本位で足を踏み入れた誰かの手に渡った。そして誰かは書き残された記録を広めていく…今も密かに祭は続いているという、余計なおまけまでつけて、な」
遠く、笛の音が聞こえた。
視線を向ける。それは村の奥から聞こえている。
誘われるようにして歩き出す少女を彼は止める事なく、その隣を静かに歩き始めた。
笛の音を辿った先には、崩れかけた鳥居があった。
ためらいなく彼は鳥居を潜り抜ける。一つ遅れて同じように鳥居を潜り抜けた少女の目の前が、不意に明るくなった。
見上げる先には、取り付けられたいくつもの提灯。ぼんやりと淡く、夜を浮かび上がらせていた。
ざわり、と周囲で声がする。姿は見えない。声だけが始まる祭を心待ちにするように、あちらこちらで囁いていた。
「物語の舞台が調い始めているようだな」
「先生?」
「どうする?やっぱり引き返すか?」
少女と視線を合わせ、彼は尋ねる。村の入口でされた問いを改めて問われ、少女は彼の目を見返しながら迷いなく答えた。
「進みます。逃げても意味はないって、先生が言ったんじゃないですか」
「――そうだな」
薄く笑みを浮かべ、彼は少女を促しさらに奥へと進んでいく。そして朽ちずに残る鳥居の前へ立つと、少女の手に何かを握らせた。
「お守り?」
「気休めだ。ここから先は、祭という物語が始まるからな。主人公が登場したら、後には引き返せない…いいんだな?」
手の中の守り袋を握り締め、少女は強く頷いた。
「いいか。この祭は、宮代の見たあの子供の記録をなぞり、今も続いているという人間の認識で出来た再現だ。本物なんかじゃあない」
はやく、と誘う声がする。行こう、とはしゃぐ声が、少女の横をすり抜けていく。
「だからな、社に連れていかれたら、否定しろ。偽物だ。ただの夢だ、ってな。心から否定さえすれば、この祭は終わる。人間の不安定な認識で出来た祭だ。同じ人間である宮代が祭は終わったと認識すれば、それで終わるんだ」
「――っ」
本当に、それだけで。
そう言いかけて、少女は口を噤む。不安に思っては、否定しきれない。彼の目が告げていた。
手の中の守り袋を胸に抱くようにして、少女は深く呼吸をする。彼の目を見つめ、はっきりと頷いた。
「分かりました。いってきます」
「気をつけろ。どうしようもなくなったら、俺に望め。何とかしてやる」
にやりと笑い、彼は言う。それに首を振って、少女は鳥居に向かい、恐る恐る足を踏み入れた。
笛の、太鼓の音が聞こえる。
視線を巡らせば、そこは何度も夢で見た神楽の舞台。
獣の面をつけ、奏で舞い踊る舞台の上の人。
それを見て楽しむ、舞台下の人々。
彼はいない。ここにいるのは、少女一人だ。
手の中の守り袋を確かめる。縋るように握り締め、舞台を睨むように見上げた。
――祭が始まった。もう後戻りは出来ない。
桜が舞っている。ひらりひらりと、誰かを求めて彷徨いながら、降り頻る。
目を閉じて、息を吐いた。祭は終わっているのだと、自身に言い聞かすように心の内で繰り返し、目を開く。
不思議と恐怖は感じない。
真っ直ぐに舞台だけを見つめ、終わらせるためにゆっくりと歩き出した。
20250421 『ささやき』
4/21/2025, 2:22:39 PM