『それでいい』
獅子は我が子を崖から突き落とすが、人間はそこまで強くはない。
突き落としてしまったら容易く死んでしまうし、実際、古代ローマには崖から突き落とす処刑方法があった。
崖から落ちたら人は死ぬのだ、たやすく。
なので私はいま崖に立っている。
「死にたそうですね」
老人の声がした。
振り返ると、まるで物語にでもでてきそうなしわがれた老人が杖をついてたたずんでいた。
「もし、死ぬのならば、その前にわたしと話しませんか。ああ、そんな嫌そうな顔をしないで、大丈夫です。説得などはしませんよ。」
老人はそういうとよっこらせ、と私の隣に座った。
どうやら拒否権はないらしい。
まあ、何を言われようと私は今日死ぬつもりだから、隣に腰掛けることにした。
「あなた、なぜ死のうとしているんです?」
説得は効かないぞ。
「気になるだけですよ。」
老人はこちらの目をじっと見てくる。
私はその目を背けることができずついには話し始めてしまった。
「単純にやることがなくなったからです。」
「というと?」
「…常に、誰かの期待に応えてきました。
親や、友人やあるいは同期に。
それが私の生き方だったんです。
親に言われて、そこそこに勉強してそこそこの大学に入りました。
特に興味はなかったですが、友人の誘いでサークルにも入って、期待に応えていたら幹事長をしていました。
そんなことをしていたから、それなりの企業に入りました。
そしたらーー
」
「そしたら?」
私は一度言葉を切った。
老人は続きが気になるようだが、私としてもそれなりに心苦しいのである。
「……何も残ってなかったんです。」
「何も?」
「はい、何も。」
「…もちろん、お金も時間もあります。それなりの企業に入りましたから。会社の期待もそこそこにあります。無難にやってきましたから。」
「ただ、そんな、何もない生活を続けるくらいならーー」
「死んだ方がマシだと?」
「はい。」
なるほど、と老人は空を見上げる。
そういえば、この崖から見える景色を私は見ていなかった。
「死ぬ前のアドバイスを授けましょう。」
「死ぬ前なのに?」
「どんな時でも死ぬその瞬間まで、アドバイスはもらうべきですよ。」
「死んでもないのに、よく言う。」
それもそうですね、と老人は笑う。
「人間は最も愚かな生き物です。欲に忠実に生き、欲に溺れて死ぬ。そのような救いようのない生き物です。そして、それは避けられない本能のようなものなのですよ。」
「一方で貴方はとても無欲な方だ。自然の摂理とは相反している。」
だから、と老人は続ける。
「もっと全てに対して貪欲になりなさい。
金は稼ぎきったのか。
学は学び尽くしたか。
期待は応えきれたか。
食は満足したのか。
性は満たしたのか。
愛は知ったのか。
偽善は楽しんだか。
そして死に場所はここでいいのか。
『本当にそれでいいのか』と問いつづけなさい。
その方がよほど人間として正しいですし、きっと死が気持ちよくなりますよ。」
老人は何かを懐かしむように朗々と語った。
正直言って、私は満喫した人生を送ったこの老人が羨ましかった。
「さて、それでは私は行くとします。
また、お会いしましょう。」
もう会うこともない、そう言う前に老人は走り出した。
あっと言うまもなく、老人は崖から飛び降りた。
ーーあの老人も自殺するつもりだったのか‼︎
私が急いで見下ろす頃には老人の姿はなかった。
おそらく、彼は、きっと。
「あなたの死ぬ理由を聞いてないですよ」
私は思わず呟いた。
あなたは、本当にそれでよかったのか。
いや、きっとそれがよかったんだろう。
私とは違う。
「…帰ろう」
あの老人のように人間らしくなってから、また戻ってこよう。
私は自然の景色を一しきり楽しんでから来た道を戻った。
4/5/2023, 12:51:17 AM