三日月(三日月を由来とするクロワッサン成分多め)
スパイとして、私は夜の舞踏会に潜入した。
ターゲットは貴族の女性――ジャンヌ・デュ・エピネルの情報だ。
古い血筋の人間であり、この国において銀行に携わる一家の女当主だ。有力な家であるのはさることながら、当代で四代目だというのに甘えることなく研鑽し、一層勢力を強めている厄介な奴らだと聞く。
さて、それと同じぐらい厄介な出来事が一つ。
「招待状が男性宛だからと、男物を着こなすのは……少々骨が折れたな……」
鏡に映る自分を見て、自らの変装――厳密には男装にため息をつく。
私はとある大きい商社のスパイなわけだが、優秀なスパイは私だけだ。他は殆どが見習いかそれ未満か。いずれにせよ私が一番スパイとして実力も経験もある。
皇室貴族の情報だって一度や二度引き抜いて、多大な利益貢献すらしてきた。
さて、首周りや肩周りに布を巻いたりして体つきはある程度誤魔化した。舞踏会へと向かおう。
――――――
それからしばらくは恙無く談話したり、有名なシェフの料理に舌鼓を打った。
男装がバレないのかとか、不安点はかなりあった。しかし結局のところ、2代目3代目と腐敗の進んだ品のない貴族どもは、そんな点に目は行かない。
金と名声。あるいは美貌。
平々凡々な貴族の招待状で良かったと心の底から思った。
「……そこのジェントル。少し良いかしら」
「貴方は……これはこれは、かのデュ・エピネル家の当主様」
探す手間が省けた。
肢体の魅力全てを引き出すように作られたドレスは滑らかな生地で出来ていて、レース生地がふんだんに使われていた。ジュエリー系のアクセサリーは控えめである反面、糸の宝石たるレースの多さで優雅に資金力を魅せていた。
「皆様方、私をいつも家名と当主の2つを使って呼ぶのよね。そこに黄金を感じているのかしら」
「で、あられましたら……ジャンヌ女史とお呼び致しましょうか?」
「ふふ、貴族でもない人が畏まっていると……なんだか、その服みたいね」
背筋が凍りつく。
この女、なんて言った。
「こんなつまらない舞踏会なんて抜け出して……名前で呼んでも良い場所、抜け出してみないかしら」
しなやかなシルク生地の手袋が私の手に触れる。
軟体生物が絡みつくように、手指が攫われて、引かれるまま会場を後にした。
目の前しか見ることのできない他貴族たちは誰も気が付いていないようで、段々遠のく声を背に静かなベランダへ連れられた。
月相は三日月だった。
「……ねえ、クロワッサンって好きかしら」
「その、今は……塩税といい、少し高くてあまり食べれてませんが……でも、とても好きです」
「そうね。庶民ですものね、スパイさん」
柔らかな風はひんやりとしていたが、彼女の表情は温かくて柔らかい。
だが気をあまり許し過ぎるのはよろしくない……一目でキチンと身分も性別も当ててきた。只者ではないのは確かだ。
壮大な前日評は大抵当日覆される。陸軍随一の切れ者と称されていた将校も、ハニートラップに負けて処刑されてしまったし、ライバル商社のトップは偽の醜聞から生まれた誹謗中傷の末に命を絶った。
誰も、最初から最後まで私の手のひらの上だった。
だが目の前の女はどうだ?
「タキシード、着慣れてないわよね。服に着られてて、むしろ逆に弱々しい貴族っぽくて……あなたが追い出されなくてむしろ安心する出来よ」
「追い出された方が、ジャンヌ女史の身の安全としては良くはないのですか」
「あらあら……可愛らしいのは、顔だけじゃなくて口先もなの?」
口角が上がる。
笑みもまた、三日月のようだ。
「貴方って商社に拾われて、ただコードネームだけ付けられた……そう、ただのチェス盤のコマよね。ヒトとして扱われたこと……あるかしら?」
「……拾って育ててもらった、それだけで忠義に値する。商社のためなら、この身の全てぐらい」
「それで、貞操まで捨てさせられたのね。選択の余地もないままに」
哀れみか、同情か、読めない。この表情は何?
ハニートラップは……確かに言われた通りだ。
けれど、それらもまた恩に報いる為。使う事も無いと思っていた選択肢に、唐突にスポットライトが当てられて、選択の余地も無いままそうなっただけだ。
仕方ないことなんだ。
目を伏せがちにしていた彼女が、再び私に視線を向ける。
「ねえ。私なら貴方に毎日クロワッサンを食べさせてあげられるわ」
「……ク、クロワッサンを!?」
素っ頓狂な声が出た。
「ええ。毎日暖かいベッドで寝かしつけてあげるし、危険な目にも遭わせないわ」
「っ、ちょ、ちょっと待っ」
「ねえ、私の物になっちょうだいよ」
勢いにグイグイと押されているうちに、べったりと私にくっついてくる。
貴族は大抵キツい香水を振り撒いていて、一堂に介した時――さっきの舞踏会もだ――なんかは鼻が曲がるほどキツい。
けれど、彼女がふわりとさせた匂いは……心が落ち着く。なんだかアロマみたいで、やすらぐようだった。
他の腐敗貴族とは何もかもが違う。もしかして、彼女なら……何か、期待してもいいのかもしれない。
「……ジャンヌ女史」
「呼び捨てでいいわよ。ジャンヌって、パパとママしかそう呼んでくれなかったの」
「はぁ……ジャンヌ」
「ふふっ。ありがとうね」
無邪気そうな笑顔を浮かべる。
商社の者らが浮かべるような笑顔とは、本質から違う……そんな笑顔を。
心臓がだんだん落ち着かなくなっていく。何をしても同じリズムを刻むメトロノームだというのに、何がそうさせた? 何が、どうして。
「ねえ、貴方の口から名前を教えて」
「名前は……ありません。ただ、コードネームなら」
「ならコードネームでいいわ。言っちゃダメかもだけど、考えなくていいわ。三日月以外聞き手は居ないもの」
「……ソリチュードです」
ソリチュード――この言葉の意味は、孤独。
「そんな……そんや、悲しい名前に運命を決められちゃダメよ。貴方は……貴方は、ボヌール。ボヌール・デュ・エピネルでどう?」
思わず呆気にとられた。
ほんの少し背伸びした彼女が私の頬に手を添えて、三日月みたいに口元に弧を描く。
ああクソ――綺麗だ。
「私が幸せにしてあげるわ。これから月が満ちるみたいに、私が貴方の心を満たしてあげるから」
1/9/2026, 4:22:40 PM