へるめす

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後悔には二種類ある。それは既に行われたことを悔いる場合と、曾て行われなかったことを悔いる場合との二つである。

彼女から手渡されたノートにはそんな箴言めいたことが書きつけてあった。――何これ?と、怪訝な目を向けたわたしに、彼女は何やら不敵な笑みを浮かべたまま「いいから続けたまえ」と言った。

夜更けのことである。或る男が休憩を兼ねて、珈琲を吞もうと思い立った。湯を沸かし、仕度を整え――と、ノートには手書きの文字でこんな話が続いていた――手近にあったマグカップに珈琲を淹れた。
男は机で飲もうと考えたのだろう。マグカップを手に持って歩き始めた。しかし、作業をしていた部屋に入ろうかという時のことだった。男は現世の虚しさを呪った。
不意に足が縺れ、マグカップが宙を舞う。中の珈琲は放物線を描き、美事に着地する。男の叫びは、永遠の染みを残されたラグマットから立ち上る湯気の向こうだ。
膝から崩れ落ちた男は、珈琲まみれになった床や、その上に散らかっていた本を見ながら誓った。何があっても絶対に溢れないマグカップを作ろう、と。
男の挑戦は数十年にも及んだ。元来の性格や職業上の適性もあったのだろう。どれほどの苦難があっても、理性の光は闇を晴らしてくれるはずだ。男はそんな風に強い決意の下、試作を重ねていった。
やがて男は快哉を叫んだ。完成したのである。
男は専用の台座に据えられた球形の物体に、天辺に空いた穴から珈琲を注ぐ。すると、自動で蓋が閉まった。それから男はその完成品を手に持ち、床へ叩き付けた。金属質の音を立てた銀色の球体からは、一滴たりとも内容物は溢れない。オマケに真空断熱で触っても熱くない。中の珈琲も冷めないというわけだ。
こうして完成した絶対に溢れない球体マグカップは世間を驚かせるに至ったのだ。

――何これ?と怪訝な目を向けたわたしに、彼女はいつの間にか持っていた銀色の丸い物体を示した。買ったの、それ?
「うん」彼女は静かに頷いた。そして、ゆっくりとその球体から手を離した。床に落ちる音が教室中に響いた。中からは液体の揺れる音が寂しく聞こえる。
「開かねんだわ」何でそんなの買ったの?「ネット見てたら、なんか令和最新式って書いてあって、青い電流がバチバチに流れてる画像があったら、つい買っちゃうじゃん」
それから、彼女は無になった表情のまま続けた。「でも、悔しいから、架空の開発秘話を作ったらちょっと愛着が湧いてきた」それがこれってこと?「そう。誰かの後悔から生まれたんなら、って思えばまだマシかなって」
別の後悔生んでるけど、地獄のような連鎖だけどとわたしが口にしかけた時だった。
「あっつい!」突如、彼女が叫んだ。見れば、足許に転がっていた例の球体の蓋が開いていたのだった。なんだ開いたじゃん、よかったな。「よくない!よくないし、あっつい!雑巾!」
昼下がりの教室、窓から入る夏を纏った風に、珈琲の香りが颯然とそよぐ。


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後悔

5/15/2023, 8:16:07 PM