結城斗永

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※この物語はフィクションです。登場する人物および団体は実在のものとは一切関係ありません。
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タイトル『響きは遠く薄く』

 私は机に置かれた絵本をリュックに詰めながら、慌ただしく出勤の準備をしていた。
 時間が迫る中、キッチンに立つ母の背中にわずかな違和感を覚える。いつもなら聞こえる鼻歌がなく、包丁の音だけが響いている。
「お母さん、何かあった?」
 振り返った母が「どうして?」と首を傾げる。
「いや、やけに静かだなと思って……」
「寝不足かな……」
 笑顔を見せる母がすこし小さく見えた。
「あまり無理しないでよ」
 声をかけて家を出たものの、胸の奥に小さなざわつきが残った。

 穏やかな土曜日の朝。職場である市立図書館までのバスに揺られながら、リュックから絵本を取り出す。
 トルストイ『七つの星』。日照りの続くロシアの村で、病気の母のために水を探す少女のお話。
 毎週土曜日の読み聞かせ。今日は私がその当番だった。スタッフの持ち回りなので頻度はさほど多くないが、これが意外と緊張するのだ。
 
 ルーティン業務をこなしているうちに、あっという間に読み聞かせの時間がやってくる。
「頑張らなくてもいいけど、頑張ってね」
 先輩からのエールに思わず吹き出しながら、絵本を抱えてキッズスペースに向かう。
 私がスツールに腰かけると、自然と子どもたちが集まってきた。期待に満ちた眼差しにまた緊張が増す。
「この星座、知ってる人!」
 私は本の表紙に描かれた絵を見せながら子どもたちに問いかける。数名の子どもが「知ってる!」「ホクトシチセイ!」と手を挙げる。

「むかしむかし、ロシアの小さな村で――」
 声を整えながら読み始める。
「病気のお母さんのために、ターニャは柄杓をもって水を探しに行きました」
 ――お母さん、大丈夫かな……。 
 ふと今朝の母の背中が頭をよぎった。

 一年中夜空を照らす北斗七星のように、私にとっての母の姿は常に輝いて見えた。
 私が幼い頃、父と離婚してからも、家事も仕事も両立し、それでもずっと笑顔を絶やさない母。
 図書館勤務も意外と体力を使う仕事だけど、一日働いてヘロヘロになっている私からすれば、どこにそんな体力があるんだろうといつも不思議に思う。 
 私はここまでどれだけの恩を受けて生きてきたんだろう。そして、その大きな愛をこの先どうやって返していけるだろう。

 絵本の上の文字を目で追いながら、言葉が口から流れていく。練習のために何度も読み返した本の内容が、薄っぺらい空気になって漂っていく。
 気づくと、最前に座る女の子が心配そうな表情でこちらを見つめていた。手遊びを始める子、キョロキョロ辺りを見渡す子。何となく辺りが落ち着かない。

 ――いけない、集中しなきゃ。
 私は一度呼吸を整えて、絵本の内容に意識を向ける。
「ターニャがお母さんから水を受け取ると、柄杓は金色に変わりました――」
 幼い頃、母が読み聞かせしてくれた時のように、優しく温かい口調を心がけて、一つ一つの言葉に想いを乗せる。すると、子どもたちの表情も少し柔らいだように見えた。

 ――はぁ、全然集中できてなかったな……。
 読み聞かせを終えた私の肩を先輩がポンと叩く。
「緊張してたみたいね。前半ロボットだったよ」
 先輩がおどけてカクカクとロボットのマネをする。
「――でも、後半は良かった」
 笑って励ましてくれる先輩の声に、胸の蟠りが少しだけほぐれた。

 家に帰ると、母が鼻歌を口ずさみながら夕食の支度をしていた。
「ただいま。なんか機嫌いいじゃん」
 私がそう言うと、母は笑顔で振り返る。
「病院行ってきたのよ。更年期障害だって」
「なんでそんな嬉しそうなのよ」
 言葉と表情が噛み合わない母に思わず突っ込むと、母はエプロンで手をぬぐってスマホの画面を見せつけてくる。そこには母と白衣の男性医師が並んで写っていた。
「婦人科の先生、超イケメンだった」
「なにそれ」
 言われてみればどことなく母が好きな歌手に似ている。乙女のような母の顔を見て、私は思わず吹き出す。
「手伝うよ」
 私は母が盛り付けた夕食をテーブルに運ぶ。
 楽しそうに鼻歌を口ずさむ母の姿を見ながらホッとする。
 
「お母さん。今度お給料入ったらご飯行こうよ」
 夕食を食べながら母に声をかける。
「貯金しなさい」優しい口調で小さく笑う。「――まぁ、行くなら駅前のイタリアンがいいわ」
 食卓に二人分の笑みがこぼれる。心の奥で、金色の柄杓が水に満たされていく。
 この母の笑顔をこれからもずっと見ていたい――そう思った。小さくてもいい。母のために恩返しできることを探してみよう。
 冬の透き通る夜空には、今日もいつもと変わらない北斗七星が遠く薄く光っている。

#失われた響き

11/30/2025, 2:58:20 AM