「もしも、大人になって――」
くすくすと少女は笑いながら囁く。
木漏れ日の差す、木々の下。色鮮やかな葉の絨毯に座りながら、二人は小さな約束をした。
それは遠い未来の答え合わせ。例えるならば開けてみるまで分からない、プレゼントの箱の中身と言うべきか。
「ここを離れることがあっても、忘れないでいてくれたら」
少女は立ち上がり、木漏れ日を受けながらくるりと回ってみせた。
呆ける少年の前で人差し指を唇に当て、小首を傾げる。
「その時に、教えてあげる……だから忘れないでいてね」
約束。少女は歌うように囁いた。
次の瞬間。強い風が吹き抜けて、色づいた落ち葉を舞い上げた。少年の視界を覆い隠し、体に降り積もっていく。
咄嗟に目を閉じた少年が、次に目を開けた時。
少女の姿はどこにもなかった。
強い風が吹き抜け、落ち葉を空に舞い上げていく。
それを見るともなしに見つめ、不意に昔の記憶が脳裏を過ぎていく。
幼い頃の約束。
名も姿さえも忘れていた少女と交わしたそれを、男は朧気ながらも思い出した。
故郷の村は、もうない。十年ほど前に街へと続く山道が崩れ何日も孤立してから、人は皆村を出て行ってしまったからだ。
なくなった村に今更行った所で、少女はいるはずもない。そもそも、すべてが山に呑まれてしまっていることだろう。だが少女を思い出した今、男は村に戻りたい衝動に駆られていた。
帰らなければと、強く思う。
彼女が待っている。焦燥感にも似た感情に、男は車でかつての村を目指していた。
久しぶりに訪れた村は、やはりその殆どが山に呑まれていた。
車を降り、辺りを見渡す。子供の頃の記憶を思い起こさせるようなものは何一つ残されていない。
嘆息しながらも、男には不思議と戻るという選択肢はなかった。車を置いて雑草を掻き分け、微かな記憶を頼りに二人だけの秘密の場所を目指していく。
何故こうまでして約束を交わした場所へ向かおうとするのか、男自身にも分からない。理由などないのかもしれない。
そんな取り留めのないことを考えながら、不思議な高揚感と衝動に突き動かされ、男は先へと進んだ。
ようやく辿りついたその場所は、何故か昔の面影をそのまま残しているように感じられた。
草原も、小川も、木漏れ日ですら懐かしい。
込み上げる感傷に、男は目を細めて足を踏み入れる。
あの日と同じ鮮やかな葉に彩られた地を踏み締め、約束をした楓の木の下へと進んでいく。
「――あぁ」
落ち葉とは違う鮮やかな色彩を認めて、声が漏れた。覚束ない足取りで、男はその色彩の元へと歩み寄る。
それはたった一輪咲いた花。
その赤が、すべての答えだった。
思わず膝から崩れ落ちた。込み上げる涙が世界を滲ませ、一輪のコスモスの姿を隠していく。
伸ばした手に触れる花弁のその柔らかさに、息を呑んだ。
触れただけで壊れてしまいそうなほど、華奢な花。
だがその強さを知っている。
他でもない、約束をした少女が男にそれを教えてくれたのだ。
「もっと早く、思い出せたのならばよかった」
泣きながら笑い、男は呟いた。
忘れていた時間が惜しい。そう思える程、少女と過ごした時間は煌めいていた。
「忘れないと思ってたのにな……君の言うとおりになった」
あの頃、何も知らない子供だった男は、少女と過ごす日々を決して忘れることはないと信じていた。だが成長し、日々に追われて行く内に、いつしか少女のことは記憶の片隅に追いやられてしまった。
やっぱり、と男の記憶の中の少女が笑う。鮮やかに思い出せるようになったその微笑みに、胸が苦しくなった。
「でもずるいよ。こんな一方的な答え合わせなんて。こんなの……寂しくなるだけじゃないか……っ」
コスモスを前に、男は声を詰まらせる。項垂れるその頬を伝い落ちる滴が、コスモスの花を揺らした。
「どうせなら、あの時直接言ってくれれば……」
泣きながら、男が言葉を続けようとした時だった。
「そんなこと、恥ずかしくてできるわけないでしょう!」
どこからか、声がした。
はっとして男が顔を上げると、小川のほとりに少女の姿があった。
「忘れてたのなら、そのまま忘れてくれていればよかったのに」
頬を膨らませながらも、少女の目は男のように涙の膜が張っている。音もなく近づく少女は、あの懐かしい日の姿のままで男の前まで来ると、くるりと回ってみせた。
「私の答えは、この花よ……あの時、あなたが好きだって言ってくれたこと、とても嬉しかった」
「――言ってくれればよかったのに」
呆けたように少女を見ていた男が、その言葉に愚痴を溢す。
涙に濡れるその表情は、それでも優しく微笑んでいた。
「だから恥ずかしかったの!……まぁでも、ちゃんと言えばよかったかなって、思ってはいるわ」
その場にしゃがみ、少女はコスモス越しに男と向き合う。濡れたコスモスの花弁を指でなぞりながら、小さく呟いた。
「ここを出て行くからって最初から諦めてしまわなければ、ちょっとでも何かが変わったのかもね」
男もまた、花弁に触れる。
少女の言うように、子供の頃の告白に彼女が答えを返してくれていたのなら。男の一方的な思い出はなかったのだと知っていたのならば。
もしもを想像して、だが男は静かに首を振った。
「変わったかもしれない。それでも今、答えをもらえたからそれでいい」
時間などは関係ない。
思いに答えをもらえた。そのただひとつの結果が何よりも大切だと、男は少女に告げる。
「そっか……」
男の言葉に、少女はふわりと微笑んだ。安堵に吐息を溢し、ゆっくりと立ち上がる。
「もういくの?」
「かえらないといけないもの」
そう言って男に背を向け、少女は歩き出す。しかし途中で止まり、一度だけ振り向いた。
「さよならは言わないわ。あなたのことだから、また来てくれるんでしょう?」
「あぁ。また来るよ。何度でも」
「なら、またね。それから――」
ふふ、と少女は笑い声を上げる。
「私ね。あなたのことが好きよ。あの日のあなたが言った好きより、コスモスの赤より、もっと鮮やかに愛してるの」
突然の告白に呆ける男の前で、少女は人差し指を唇に当て、小首を傾げる。
「あなたが思い出してくれて嬉しかった。もう忘れないでね」
男が何かを言いかけるより早く、風が吹き抜けた。色づいた落ち葉を舞い上げ、男の視界から少女を隠していく。
「待って――!」
立ち上がり手を伸ばす。だがその手に触れるのは、乾いた落ち葉だけだ。
そして風が止んだ後、そこに少女の姿はなく、ただ一輪の赤いコスモスが静かに揺れているだけだった。
男は小さく息を吐くと、服の裾で涙を拭う。
揺れるコスモスを見ながら、少女がいつか教えてくれたことを思い出し、笑みを浮かべた。
「赤いコスモスの花言葉は『乙女の愛情』か……乙女というには、お転婆だった気がするけどな」
遠くどこかで、馬鹿、と怒る声が聞こえた気がして、男は声を上げて笑う。
見上げた空は、いつのまにか陽が傾きかけていた。
「また来るよ。だから、さよならは言わない……またね」
少女と同じ言葉を囁き、男はゆっくりと歩き出す。
去って行くその背を、一輪のコスモスがいつまでも見つめていた。
20251010 『一輪のコスモス』
10/11/2025, 9:56:58 AM