『落ち葉の道』
眠……。
マスクのせいで眼鏡が曇り、視界を狭くする。
早朝の空気は冷え込み、気がつけばマスクの隙間から出ていく息が白く染まっていた。
気霜(きじも)となって曖昧に形取られたあくびは、弱々しく空を漂ったあと静かに消えていった。
耳朶を刺す容赦のない冷気に、明日はニット帽は出そうと決意する。
コート、インナーダウン、機能性インナーと、季節が進むごとに着用する衣類が増えていった。
そろそろダウンでも出そうか。
まだ少し日の弱い空を見上げた。
少し前までは色鮮やかに染めていた葉が、風に吹かれて枝と別れを告げる。
まだ温度を感じられない光を表や裏に浴び、艶やかな紅色を柔らかく揺らめかせた。
雑踏に紛れた葉は水分を失った乾いた音を誰に聞かれることもなく、地に落ちて色鮮やかな吹き溜まりを作っていく。
気まぐれな風が地を這って、道路の隅に追いやられた落ち葉をかき乱した。
ぼんやりとした薄白い空に、乾いた音を巻き上げる。
葉擦れを起こし、行き交う人に踏み倒され、葉脈すら無残に壊された。
そんな落ち葉で溢れた街路樹を通り抜け、通勤ラッシュ真っただ中の駅の改札口に交通系ICカードを乗せる。
*
帰宅すると、玄関までいい匂いが立ち込めている。
リビングに向かえば、料理嫌いの彼女が珍しくキッチンに立っている姿が見えた。
なにを作っているのか気になって、ワクワクしながらそっとキッチンに近づく。
しかし、その期待はあっさりと打ち砕かれた。
……えぇ……?
クツクツと煮立てていたのは数枚のイチョウの葉だった。
「イチョウの葉って食えるんですか?」
「おわっ!?」
背後から声をかけたせいか、彼女は大きな声をあげて振り返る。
「お、おかえり」
「戻りました。すみません、驚かせるつもりはなかったんですけど」
「ビックリした」
胸を撫で下ろしたあと、彼女は再び菜箸で鍋をゆっくりとかき回した。
「あと、葉っぱは食べないよ?」
「じゃあ、なんで湯がいてるんです?」
「きれいにして手帳に挟もうかなって」
「それなら1枚でよくないですか?」
俺の不用意な発言のせいで、彼女の唇がムッと尖った。
「こっちが手帳でしょ? こっちがスマホ、残りは押し葉にしてパウチするの。だから、あとでパウチ機貸してもらおうかなって」
丁寧に説明を挟んで、イチョウの葉っぱが1枚、1枚、キッチンペーパーの上に並べられていく。
「パウチ機はかまいませんけれども」
「パウチするときれいに保存できるんだって」
「へえ」
季節が移ろげばすぐに手放すクセに、凝ったことをする。
かわいい彼女の工作は、当たり前にどれもかわいい。
最初こそ、俺も彼女が捨てようとするたびに回収していた。
だが、さすがにキリがなくなって泣く泣く入れ替え制度を導入する。
彼女の過去作品は写真にしてポートフォリオとしてまとめていた。
「あ、そうだ。ついでに作り置きなくなってたから、勝手に食材使っちゃった」
「はあっ!?」
その言葉を聞き、俺は急いで冷蔵庫を開けた。
「そういうことは先に言ってください!」
冷凍室には牛肉、豚肉、鶏肉がそれぞれ味噌、醤油、塩、スパイスで下ごしらえされている。
彼女お手製の最強味つけ四天王だ。
野菜を適当にぶち込むだけでメイン料理になるから、俺も重宝させてもらっている。
冷蔵室には大量消費に困っていた、水菜、ズッキーニ、ゴボウ。
それらは各々、一品料理として立派に変身を遂げた。
しかも味噌汁まで作ってくれたとか、最高か!?
俺は冷蔵室に入った味噌汁鍋と水菜のタッパーを取り出した。
「今日は俺、これを食います」
「え。作り置きのつもりだったんだけど」
彼女の作った飯ほどうまいものはない。
同じ食材と調味料を使っているのに、どうしたって俺は男飯感が否めないのだ。
一方で、彼女のほうは上品に味がまとまっていて舌が蕩ける。
これで料理嫌いとかズルすぎる。
洗い物以外でキッチンに立ち入ろうとしないから、彼女の手料理は久しぶりだ。
絶対に食べたい。
「こ、れ、を、食、い、ま、す!」
「圧強っ」
「メインはあなたのコンディションに合わせてあげます」
「ずいぶん高みから来やがるなあ?」
ケラケラと笑いながら彼女はタオルで手を拭いて、コンロの上に置いてあったフライパンを指さした。
「お魚でもいい? フライパンでブリ大根作ってみた。粗熱、取ってたところだった」
「!?」
魚料理も食えるだとっ!?
早めに仕事を片づけてきてよかった……!
最速で俺は両膝をついて、床に額を擦りつけた。
「ありがとうございます!」
「土下座やめれる?」
先ほどのまろやかな雰囲気の彼女はどこに行ってしまったのか。
彼女は心底、面倒くさそうな表情で息をついたのだった。
11/26/2025, 5:00:25 AM