透明
僕の心はずっとずっと空っぽだった。
何にもなくって、大切なものなど一つも入っていなくて、この先思い返したい煌めいた記憶など一つも無かった。そんな僕のことを人は怖い、と言う。おかしい、普通じゃない、変だ、恐ろしい、と。仕舞いには、人の子とは思えないだなんて酷いことを言われた。生まれてからずうっとそんな風に生きてきたのだから、今更哀しみだなんて感じないのだけど…そういうところが、怖いと言われてしまうかな。あー難しい。もう分かんないや。って、そう何度も考えてはすぐに思考を放棄した。だって幾ら考えても答えが出ないから。僕はただ、透明な日々の中で嫌に真っ青な広い空を見上げることしかやることがなくって、ずうっとそうして生きているんだ。
「泣きたいの?」
「え?」
「いや泣きそうな顔、していたからさあ」
彼と初めてであった時。初めて交わした言葉は、そんな疑問符から始まった。いつもみたいになんにも無い原っぱで寝そべって、青空に浮かぶ雲の切れ端をなぞっていた僕の顔をいきなり覗き込んで。初めてまして!なんて元気な声の後、そんな質問をした。泣きそう、って何なのだろうか。涙が出たことなんて一度も無い。
「…泣きそう、っていうの、分かんない」
「泣いたことないの?」
「うん」
「へえ!強いんだねえ」
彼は真っ直ぐ向日葵の咲いた瞳で笑う。強い、強いのだろうか。何にも感じないことは、強い事なのか。
「強くなんか、ないけど…」
「強いよ!」
呼吸するかのような自然さで唇を落っこちた弱音は、彼の強気な音で直ぐにかき消された。そんなに深刻に発した訳じゃなかった僕は、あまりに真剣な彼の眼差しに思わずたじろぐ。怒らせてしまったのだろうか、と少しだけ心臓が軋んだ。
「俺は泣き虫だって、すぐからかわれる」
「そうなの…?」
「そう。なんか直ぐに涙出てきちゃって、泣きたくもないのに泣けちゃうの」
「へえ、すごい、ね」
「すごい?」
「うん。すごいよ。僕は、泣きたくても泣けないから」
泣きたくても、なんて言ったけど、本当は泣きたいという感情すらも分からない。僕には正真正銘なんにもない。でも目の前の彼は、手に余るくらい色んなものを抱えている。
「なんか、似てるね」
「似てる…?正反対じゃないの…?」
「ううん。似た者同士だ」
彼の言葉は不思議だった。フワフワと心地良いのに言われてしまったこと全てに納得させられてしまうような強さがある。
「俺らはきっと、仲良しになれるよ!」
眩しい。太陽の光なんかよりずっと眩しい笑顔で彼は言った。そんなハズないと思うのに、その眩しさのせいでそんな気がしてくるような錯覚を覚えてしまう。なれるだろうか、人の子じゃないと罵られる僕と万人を引き寄せるみたいな明るさを持つ彼が仲良しに…。
「仲良し…」
「うん!というかもう、仲良しだ」
「そうなの…?」
「そうだよ。ほら」
僕の手を強引に取って、小指と小指を絡める。綺麗な声で元気よくゆーびきりげーんまん、と歌って小指を揺らしている。ゆびきった!でぱっと離れた小指が彼の温い体温でいつもよりほんのりと温かい。
「明日もここで、お話しようね」
「…ぅん」
「次は君のこと、もっと教えて欲しいんだ」
「わか、った」
「また、明日!」
夕暮れが近い。帰らなくちゃって走っていった彼の背は小さくなっていく。その背中をぼんやりと見て、胸の中でちりっと焦げる思いがあった。なんだろうこれ、行かないでなんて思ってしまう。昔、本で読んだ言葉を思い返す。そうだな、既視感があった。零時になって帰らなくちゃいけないシンデレラ。王子様の手を離していえへと走る。自分を呼ぶ王子様の声…。ああ、寂しい。そうか。これは、寂しさなんていうのか。
…彼はすごい。やっぱりすごい。感情なんてまるで無かった僕に、たったの太陽の傾き三十度で感情ひとつを生み出してしまったのだから。彼の背はもう見えない。それでも、彼が走った煌めいた道のりをなぞりたくなる衝動がちいさな胸に宿っていた。この衝動の名は何だろう。なんというのだろう。本を読めば、導き出せるのだろうか。それとも彼にまた会えば分かるだろうか。
また明日!
どんなに響きの良い言葉だろう。明日が待ち遠しいのは初めてだ。いつしか彼が僕の空っぽな心の中心になって、透明な心臓を色めくものに変えてくれたりするのだろうかと、僕はやけに逸る胸を抑えて帰路へと踵を返すのだった。
5/21/2024, 6:13:29 PM