文学史上、長らく、トルバドール文学の一つとされてきた「恋物語」と題する作品がある[1]。
今では数葉の断片のみが伝わっているとされ、取り分け、偽アリストテレスの『愛について』からの引喩であると見なされてきた「愛は恋と比較して、多くの欠如を含む」なる一節は、後代のひとがアリストテレスに仮託したにせよ、氏らしからぬ不明晰さでしばしば議論の的となってきたことはよく知られている[2]。
ところが、近年、「恋物語」の成立年代は、当初考えられてきたものよりもかなり新しいらしいこと、だとすれば、ロマンス語で綴られた恋の悦びも、全くの偽作であるか、何らかの底本があり、それを翻訳したものであることが暴露されたのである[3]。
18世紀以降、文学者や哲学研究の徒を広く巻き込み、彼等の愛についての考え方や、恋愛体験を雄弁に語らせてきた詩片が出鱈目と判った今、梯子を外された彼等は泉下にあって汗顔の至りとこれを恥じ入るだろうか?
言うまでもなく、偽作を基に語られた彼等の恋愛論は本物である。
さて。ここでは贅言を避け、最後に件の「恋物語」の数少ない断片から、一つを引用して終わろう[4]。
>すべては嘘である
>愛も、恋も、この物語も
註
1)稲井和洋゠編訳:トルバドール文学選集.無可有書房.1987年.
2)アリストテレスの一連の著作については、『アリストテレス全集』(岩波書店、1988-1994年)及び同新版(岩波書店、2013年~)を参照のこと。また、一連の議論については『出隆著作集』(勁草書房)も参考になるだろう。
3)Abwesen N, et al.:Über Liebesgeshihite. Trou Lit, 2018.
4)稲井:前掲書.
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恋物語
5/19/2023, 5:11:32 AM