ふうっ。
学校のトイレの鏡の前でため息をひとつついて、咲苗は前髪を整えた。
鏡の中の自分の眉毛が片方だけぴくっ、と動いた気がした。
え?
見ていると、
ぷふふっ。
鏡の中の自分が吹き出した。
「ふふふ、ごめんごめん。
あー、やっちゃった。」
「………。」
「そんなに驚かないでよ。
動かないだけでいつもこっちから見てるんだから。
そんなに特別なことじゃないって。」
「………。」
「ねえ、代わってあげようか?」
鏡の中の自分が明るい声で言った。
「えっ………」
「クラリネット、うまく吹けないんでしょ?」
「そうだけど…………
あなた、できるの?」
「さあ。
あくまでわたしはあなただからね。
あなたの力しか持ってないからわかんないわね。
ただ、あなたがしんどい思いで練習していなくてもよくなるわよ。」
「そんなことしてたらわたしどんどんへたくそになるだけじゃない……。」
「それはわたしのがんばり次第ね。
あなたががんばったらわたしの能力が上がるように、わたしががんばったらあなたの能力も上がるのよ。わたしとあなたはおんなじなんだから。」
「………。」
「疲れてるんでしょ。一回試してみたら?」
「………じゃあ………
ちょっとだけ………。」
そう言って鏡の中の自分の言うまま手を合わせた。
「じゃ、行ってくるね!
終わったらちゃんと戻ってくるから心配しないで!」
鏡の中で手を振りながら、ほんとに戻ってくるのかしら。来なかったらどうしよう。と不安になった。
部活が終わった頃、ちゃんと自分が帰ってきた。
「あー。楽しかった。
いつもガラスに映ってたりはするけど、やっぱり生身でするのはいいものよねー。
はいっ。」
そう言って鏡に手を当ててきた。
わたしはあっさりと元に戻れた。
それからわたしは時々鏡の中の自分と入れ代わるようになった。
大変なことをしなくていいし、鏡の中の自分に任せておくと、最近やる気が出てる。とか、生き生きしてる。とか、うまくいっていなくても評判がよくなったし、彼女はたしかに真面目に取り組んでくれているようで、自分がその場にいるより何事も伸びがよくなるようだった。
テストの後だった。
緊張が嫌でその日は一日入れ代わっていた。
「あ、おかえりー。お疲れ様。」
「………。」
「?どうしたの?」
「………あのさあ……
戻る必要って、あるかな………」
「えっ…
何言ってんの?」
「咲苗、ほんとに戻りたい?」
「…………。」
そう言われて、わたしは何も言えなくなった。
嫌なことをぜんぶ鏡に押し付けて、すぐ逃げていた自分。
なんでも楽しそうにこなしていた彼女。
その日からわたしは鏡になって
彼女がわたしになった。
「鏡」
8/18/2024, 2:42:19 PM