「わ、もうこんな時間だ」
「終電どう?間に合いそう?」
「うーんと、走れば、なんとか」
しかしそういう時に限ってエレベーターの到着が遅い。このフロアにいるのは私達の他には誰も居なかった。きっと、この建物の中にだってもう殆どの人間が残っていないだろう。なのにさっきから呼んでいるエレベーターはいつになっても来ない。
「……階段で降りようかな」
「20階以上あるけど、大丈夫?」
「ですよねぇ。あはは、やっぱ無理か」
冗談なのか本気なのか、言った自分でもよく分かっていなかった。とにかく急がないと帰る術が無くなってしまう。私も先輩も電車だけどお互いに乗る線が違う。私のほうが終電は30分以上も早い。これを逃したら間違いなく帰れない。それだけは絶対に避けたい。
「神崎さんさぁ」
ふいに先輩が私の名を呼んだ。つられて隣を見ると先輩は酷く真面目な顔をしていた。
「隣の部署の……なんて言ったっけ、こないだ中途で入ってきた男の」
「あぁ、瀬戸くん」
「そう、そんな名前。あの彼と付き合ってるの?」
「え?」
最近仕事の内容でわりと話すけど、そんな関係にてはない。何を突然先輩は言い出すのかと思った。
「付き合ってなんかいませんよ、ちょっと仕事でお世話になったりしてて」
「それだけ?」
「はい。そうですけど?」
「そっか」
良かった、という先輩の言葉と同時にポン、という音がフロアに響いた。ようやく来たエレベーターに2人乗り込む。さっきよりも視界が明るい。気になって、先輩の顔をもう一度見た。何故かホッとしたような顔をしている。まさか。もしかして、と思った。
「これで付き合ってます、って言われたらどうしようかと思ったよ」
「えと、あの」
「もしそうだったら、今日は君は家に帰れなかったかも」
にこりと。この小さな箱の中で先輩が笑っていた。いつものような優しい笑い方なのに私には不気味にしか映らなった。自分の心臓がびくんと跳ねたのが分かった。先輩から目がそらせない。この感情の名前は何だろうって考えながら早く1階に着くことを祈る。鼓動は物凄い速さになっていた。数秒前の、“もしかして”を思っていた私は何だったのか。ものすごく恥ずかしい。それよりも、今、怖くて仕方ない。
ようやく1階に着いた。けれど先輩はエレベーターを開けてはくれなかった。このままでは終電に乗りそこねてしまう。いや、その前にここから逃げ出したい。先輩の前から逃げ出したい。
「ねぇ、神崎さん」
先輩がボタンを押して扉を開けた。彼を超えたその先に暗がりの世界が広がっている。でも、そっちのほうがずっとマシだと思った。早くこの箱から出なくちゃ。でもこの人を押しのけて行くのは怖い。どうするべきか困惑する私に手が差し出された。
「俺を選んでよ。そしたらここから出ていいよ」
「……なんで」
そうなるの。意味が分からない。でも先輩の目は本気だった。命を握られているような気分になる。これでもし、彼の言う通りにしなかったら私はどうなっちゃうんだろう。もう終電に間に合うかどうかのレベルの話ではない。
「別に今は俺に興味なくてもいいよ。ゆっくり知ってもらえば。でも誰かにとられるのは嫌だから、一先ず俺のものになってよ。ね?」
ずい、と大きな手が私の鼻すれすれのところに伸びてきた。どうすれば。考えている時間なんてない。早くしないとまた扉が閉まってしまう。でも彼の話を両手広げて受け入れることなんてできない。だけどここにずっと居るのも無理だ。
どうしようどうしようどうしよう。泣きそうになりながら立ち尽くすしかなかった。やがて扉がゆっくりと閉まろうとする。外の世界から閉されてしまう。あぁ、神様、と咄嗟に思った。けれど何も起こることはなかった。完全に閉まる直前、彼の口元が怪しく歪んだのが見えた。
10/29/2023, 5:28:37 AM