あにの川流れ

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 家の一室。この世界に来れる毎週末を、ぼくはそれはもう、すっごく心待ちにしている。

 床板が外されたそこ。
 冷たい波がバシャバシャ周りの床を濡らしてるけれど、ぜんぜん平気。気にしない。だってそのためのお部屋。
 透き通る彩度の高い水色が、切り取られて加工された写真みたい。部屋の窓から射し込む陽光にチラチラ。とっても美しい。

 まだまだ息を切らして、そっと覗くの。
 はぁ、って息をついた瞬間――――、

 「ぅあ⁉」

 バチャンって飛沫を上げて。まるで水族館のショーの演目。
 仰け反ったけれど、ぼくもばかしゃない。
 バッてビニール傘を開いて。
 ぼたたたた――――、豪雨の音。

 まだ波立つそこから、ぽちゃり。
 きみがお顔を出す。ぼくたち――ヒトと同じ造形をしたそのお顔は、眉を寄せてね、すっごく白々しいお顔。
 じとーって睨んでくるの。

 「遅いですよ」
 「きみが早すぎるの。あと、ぼく、危うくびしょびしょ。いつもいつも。何か言うことないの?」
 「おや、水もしたたる何とやら。惜しいことをしましたね」
 「季節考えて。いま、いちばん寒い季節」

 くすくす。手の甲で口許を隠してるのに、水面からはパチャ、パチャ、って尾ひれが楽しそうに跳ねてるから丸分かり。
 こんなに寒いのにきみの顔色はいつも同じ。
 触れたら、普通にあったかい。ほんと、体温が高いんだから。

 「ちょっと、冷たいです」
 「いいでしょ、冷たい海にいるんだから」
 「あたたかい海から顔を出しているから、顔は寒いんです。あなたこそ、寒いところにいるから冷えるのでしょう?」
 「これでもこのお部屋はあたたかいの。末端冷え性だからお手々が冷たいの」
 「難儀ですね」
 「きみに言われたくないなぁ」

 海の中から床に肘をついて、頬杖をつくきみ。
 はーっ、はぁーっ、って何度も息を吐き出して空中にできる白い蒸気をたのしんでる。
 無邪気でこどもみたい。っていうと、きみは呆れたみたいに言うの。「あなたたちが海に潜ったときも同じような反応をしていますよ」って。

 「あ、わたくし、あれがたべたいです。前にたべさせてくれた、お魚の」
 「あー……えと、お寿司?」
 「そう! それです」
 「何のネタがいいの?」
 「炙りはらみがいいです」
 「好きだねぇ、脂身。……ねえ、共食いになんないの?」
 「え? だって、あなたたち、豚も牛も食すじゃないですか。それに、海のいきものだって、他の種類の海のいきものをたべますよ?」
 「そういう認識なの?」
 「地上のいきものは、ヒトだけなのですか?」
 「ちがうね」
 「そうでしょうとも」

 早く寿司を持ってこい、って顔してるけれどさ。なんだかちょっと、納得ゆかない。昔読んだ童話のせいかな。
 きみの身体にヒトの不死身につながるものはない、とか。ぼくときみが同じだけの寿命、だとか。魚だけじゃない肉も、きみが好き、だとか。
 わりかし、ぼくの常識と無意識の思考の構築とは食い違うから。

 「あっ、あと!」
 「まだあるの? きみってば食いしん坊」
 「誰でも同じですよ。お酒、お酒持ってきてください! 好きです、お酒、とっても好きです!」
 「いいけど、きみ、帰れなくなるよ? 他のお魚にたべられちゃうかも」
 「泊まってゆきます」
 「え」
 「浴槽か水槽にお水、張ってください。わたくし、寝相はいいほうですよ? 水質も選びません!」
 「いいけど。きみ、寝相けっこう悪いよ? 尾ひれ、めっちゃ動く。夢でクロールしてるし」
 「え゛ッ」

 ぼちゃん、って沈んだきみの尾ひれ。今度はぼくがくすくす笑う番。
 ちょっと落ち込んでるきみのために、台車に載せた浴槽に海水を汲み上げる。
 まだ尾ひれをぎゅ、って握るきみを浮かべて。
 
 ヒトの世界――――ぼくの世界にご案内。
 この家だけは、この空間だけは、ちっちゃなこの世界は、きみとぼくが共有する世界。

 「ね、元気出して」
 「……今度、おいしい海の幸を献上します」
 「んふ、たのしみにしとく。あ、それと、採取したいものがあるんだけど」
 「いいですよ、探しておきます」

 けっこう、win-winだったりする。



#この世界は



1/16/2023, 6:10:44 AM