汀月透子

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※15日分投稿失敗してるので、2本立てです。長くてサーセン。

〈この世界は〉

 この世界には、何も期待していない。そう思いながら、私は毎朝ベッドから起き上がる。

 二十六歳の誕生日を先月迎えたけれど、何も変わらなかった。
 勉強ができた記憶も、胸を張れる特技もない。大学はなんとか卒業して、派遣社員として三年。
 正社員になる気力もなければ、転職する目標もない。
 目指すものは空白のまま、食事は味気なく、昨日と今日の区別は薄い。
 ただ、毎朝起きて、電車に乗って、パソコンの前に座って、帰宅する。その繰り返し。生きているというより、惰性で時間を消費しているだけだ。

 この世界に希望はあるのだろうか。
 最近、そんなことばかり考えるようになった。朝起きるのが辛い。夜は眠れない。会社では集中できず、ミスが増えた。上司の呆れた顔が目に焼きついている。

 問いは答えを持たないまま、私の中で鈍く転がり続ける。

 心療内科を検索していたのは、せめて名前のつく不調にしてしまいたかったからだ。
 スマホで近くのクリニックを検索する。駅から徒歩十分。予約なしでも大丈夫らしい。重い足を引きずるように歩き始めた。

 診察の受付が終わるまであと30分ほど。地図アプリに促されるまま、商店街から道を一本入る。路地裏に、真っ黒な猫が道の真ん中に座っていた。
 猫が「ニャア」と鳴く。その横のビルに、占いの看板が出ていた。色あせた布と、甘い香の漂う小さな部屋。
 吸い寄せられるように入ると、真っ黒な衣装に身を包んだ年齢不祥の占い師が、私をまっすぐ見た。
 彼女は薄いベールの下から、鋭い眼光で私を射抜く。

「……どうしたい?」

 問いは、いつも私が避けてきたものだった。答えはすぐに出てしまう。

「この世界に、見切りをつけたいです」

 占い師は、ほんの一瞬だけ眉を動かした。

「死にたいの?」

 否定も肯定もできない私の前に、冷たい光が差し出される。──ナイフだった。刃先が近づく。
 驚きすぎて声も出ず、心臓が喉にせり上がる。

「この世界のあなたは、今ここで死んだわ。
 この部屋を出れば、もう新しい世界よ」

 占い師は微笑んだ。その笑みは優しくも残酷で、嘘のように静かだった。

──

「どうしましたか?」

 肩に触れる感触で、はっとする。警官が覗き込んでいた。
 気づけば、私は商店街のベンチに座り込んでいた。占いの館は、路地は、どこにもない。

「めまいがして……少し休んでました」

 警官は心配そうに私を見たが、やがて頷いて去っていった。

 スマホを見ると、路地に入った時から1分も経っていない。
 立ち上がると、不思議と足が軽い。さっきまでの重さが嘘のように消えている。
 空を見上げる。夕焼けが、オレンジ色に染まっている。きれい。そんなふうに思えたのは、いつぶりだろう。

「……おなか、空いたかも」

 本当に、お腹が空いている。胃の奥から、空腹を感じる。
 何か食べたい。何を食べようか。そんなことを考えながら、私は歩き始める。

 ふと振り返ると、さっき座っていたベンチ横から、黒猫が琥珀色の瞳でこちらを見つめている。
 猫はゆっくりと瞬きして「ニャア」と一鳴きすると、闇に溶けるように消えていった。

 今度の「世界」は、まだ何もわからない。きっと、冷たくて、期待しなくて、時々残酷なこともあるだろう。
 でも、さっきのようなサプライズがまた起こるかもしれない。

 私は前を向いて歩き続ける。またあの黒猫がこちらを見ているのを期待しながら。

────────

〈どうして〉

 キッチンで洗い物をしていたとき、ラジオから懐かしい曲が流れてきた。
 三十年近く前、二十歳の私がよく聴いていた歌。スポンジを持つ手が止まる。

──ああ、そうだった。あの人も、この歌が好きだった。

 記憶の扉が、きしむ音を立てて開く。

 細身で、少し猫背で、いつも斜に構えたような笑い方をする人だった。名前は──ちゃんと思い出せる。顔も、声も。
 でも、どうして別れてしまったのか。その理由が、霧の中のようにぼんやりとしている。

 確か、彼が店員に対して横柄だったからだ。レストランでも、コンビニでも、自分より下だと判断した相手には、露骨に態度が変わる人だった。

「そういうの、良くないよ」
 何度も言った。
 でも、彼は笑って答える。
「金出してる相手にありがとうとか、言う必要がある?」
 悪気がないぶん、余計に質(たちが悪かった。

 どうして、あのとき許容できなかったんだろう。

 いや、違う。今でも許容できない。あれは些細なことじゃなかった。価値観の根本が違っていたのだ。
 そんな人と、この先何十年も一緒にいる未来なんて、考えられなかった。

 それなのに、どうして彼のことを忘れて前に進めたのか。

 あれほど好きだと思っていたのに。別れた直後は、世界が色を失ったように感じたのに。
 数ヶ月もすれば、彼の顔を思い出すことさえ減っていった。人の心って、こんなにも軽いものなのかと、自分で自分が信じられなかった。

「おーい、醤油どこ?」

 夫の声で、はっと我に返る。
 顔を上げると、リビングでテーブルを拭いている夫の背中が見えた。
 少し丸くなった背中。昔はもっとがっちりしていたのに、と思う。

「冷蔵庫の扉のところ」

 そう答えながら、ふと訊いてみたくなった。

「……ねえ、どうして私と結婚したの?」

 夫が振り返る。怪訝そうな顔。

「何だよ、急に」
「今の曲で昔を思い出してたのよ」

 夫は少し考えるような仕草をして、照れくさそうに目を逸らした。

「何でだろうなぁ、歳とっても一緒に暮らせたらと思ったからかな」

 無愛想な言い方。でも、耳が少し赤くなっている。
 結婚して二十年以上経つのに、こういうとき照れるのは変わらない。

 私が夫と結婚してもいいと思えたのは、些細なことだった。
 レストランで会計を済ませるとき、必ず「美味しかったです」と店員に言う人だった。タクシーを降りるときも「ありがとうございました」と運転手に声をかける。
 やってもらったことに、きちんと感謝を伝えられる人だった。

 そんな些細なことが、決め手になった。人としての在り方が、そこに表れていると思ったから。

 私は夫の横顔を見ながら思う。
 あの人との別れの詳細を思い出せないのは、きっと、別れた記憶を上回るほど幸せなことがあったからだ。
 夫と出会って、笑って、喧嘩して、仲直りして、子供が生まれて、育てて。そういう日々が、少しずつ、古い記憶を塗り替えていったのだ。

 忘れたのではない。上書きされたのだ。もっと大切なもので。

「そういえば」と、私は言った。

「結婚する前に一緒に行った、あの海辺のカフェ、まだあるかな」
「さあ? もう二十年以上前だぞ」
「今度、行ってみない? 二人で」

 夫は少し驚いたような顔をして、それからぶっきらぼうに頷いた。

「まあ、いいけど」

 ラジオでは、もう次の曲が流れている。私は再びスポンジを手に取り、微笑んだ。

 過去は過去として、そこに置いておけばいい。大切なのは、今、ここにいる人だから。

──────

「どうして」送信できてなかった……どうして(´・ω・`)


1/15/2026, 10:02:49 AM