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特別な夜




寂しくはない

やっと1人になれる

やっと私に戻れる

温め続けてきた計画を、実行する

準備は念入りに、
でも早く始めたい

私はベッドに横たわっている
首だけ回して隣を見やると、
真冬でも下着姿で大いびきをかいている夫と、
バンザイして静かに寝ている娘がいる
目を逸らしてから目を閉じた

私は今夜、この灰色のアパートの寝室から出るのだ


鏡台は、寝室の隅で埃だらけになっていた
ミラーの埃を拭いて見えた、
スッピンでひどい自分の姿に少し怯んだが、
すぐにメークアップを始める
何年も買い換えていない化粧品を、騙し騙し使って
アイシャドウとアイラインを恐る恐る描き足してく
睫毛を長く濃く 唇は少しずつオーバーに描く

こうしてる時も、気持ちが高ぶっている

メークアップの次はドレス
胸元と腰が露出したドレスを 、迷った挙句、纏った
次はヘアメイクだが、髪を少し強く巻きすぎた
やり直したいが時間がない
持っているもので一番上等なジュエリーを散りばめ、
香水をサッと振る

そして夫に隠れて買ったピンヒールを身につけると

私は生まれ変わった

曲がった背中が伸びて、
露出の効いたドレスを美しく着こなしている
産後に戻らなくなった、たるんだ下っ腹が消え、
浮腫んでパンパンに腫れ上がっていた顔は
別人のようにシャープになり
眉間のシワも、寝不足のクマも消えた

なによりも、いろいろな劣等感が消えた
胸のつかえがとれ、
妙な自信のようなものが私を支えてくれている気がした

私は自分の姿に満足して、心は晴れ晴れしく
これから私は1人で、特別な夜を満喫する

ヒールを突き出して歩き出そうとしたその時、
あっ、と気がついた

左薬指の、くすんだ指輪

すぐに外して、鏡台に置いた
何か言いたげな指輪に、
私はわざと乱暴に背を向けた


そして今度こそ、藍色の世界へ飛んだ

気分は清々しく、これから起こる出来事に
私はすっかり高揚している


いつもより長い夜がいい

毎回そう願うのだけど、無情にも、どんな夜も
流れ星みたいにサッサと過ぎ去っていく
それは仕方ないとして、限られた時間をめいいっぱい
楽しく過ごしたい
きっと今夜も、朝までご機嫌で踊りあかすのだ
この先二度と会えないだろう、
今夜限りの秘密の人たちと……

期待に胸を弾ませ藍色の中を進んでいくと、
目指す所へはすぐにたどり着いた

会場は気後れするほどに きらびやかで、眩しく、
深夜1時とは思えぬほど人々の陽気な歓談に溢れていた

可愛い顔立ちのギャルソンから受けとったシャンパン片手に
この先二度と会えないだろう、今夜限りの素敵な相手を探す

こちらで一緒にお話ししましょうよ
歳上のお姉さまに話しかけられ舞い上がる私
私は、歳上の女性とのおしゃべりが大好き

綺麗なドレスね ジュエリーもよく似合ってる
ヘアメイクは?自分で?
実は私、あの俳優の奥さんと同じエステに通ってるの
こないだ行ったレストラン、すごくよかった
ねぇ、シャンパンの泡って好き
きめ細やかな泡が絶え間なくグラスの底から生まれて……
ずっと見ていられる……

女は男と違って、そんな事を延々と言い合える
私は、クープグラスで短い役目を終える泡を見つめた

よく冷えた泡は私の喉を潤し、若干の火照りを生んだ

手の甲で首元を冷やしていると、
ひとりの好青年が手を差し出してきた
瞳の綺麗な人
私は喜んで、と、その手をとった

軽快なワルツ
こんな素敵な人と手をとりあい、微笑んで、見つめ合う
弾むステップ 、流れるような優雅なターン

実は、私は踊り方なんて全く知らないのに
彼が私をエスコートしてくれるので
ただ夢見心地で、身を委ねればいい

ひとしきり踊ると、
彼はニコリと笑ってから、ボウ・アンド・スクレープ
そして私の手を再びとり、手の甲にキスして
くるりと背を向けあっさり去っていく
私も引き留めたりしない さよならと胸の中で呟く
後ろ姿が、足からスーッと灰色になり消えてく
そうして私は計画通り、何人かの素敵な男性と、
飽きるまで踊りを楽しんだ

タンゴにワルツ……またワルツ……
私は夢中で踊り続けた

踊りに疲れて、また女性たちとの歓談に向かった
追加でオーダーしたシャンパンを片手に
妬ましいほどに成功している女性たちの元へと向かう

社長令嬢、女社長に女医、スーパーモデル、官僚の夫人、
世界で活躍する歌姫、インフルエンサー、タレント、
女性外交官、野球選手と結婚したアイドルやアナウンサー
妬ましいほどに経歴も肩書きもある輝いている女性たち
対照的で場違いな私……
けれど大丈夫
彼女たちは私の作りだした幻だから、
もちろん一般人の私のことを蔑んだりもしない
陰口や噂話や、余計な詮索やお節介もない
ただ、美しいものや世間をにぎわせているものを題材に
愉快に、お上品に笑い合うだけ

そうして夜は、やっぱり流れ星のように過ぎてった

終始、上機嫌で過ごしていた私だが、
ふと通りかかったギャルソンの足を見て青ざめた
足は灰色になり、その色も薄く、消えかかっているのだ

慌てて目の前で話している女性たちの足を見たが、
やっぱり灰色になり消えかかっている
見渡すと、さっきまでそこで踊っていた人たちは
いつの間にか完全に消えていて、私は悟った


朝がきた……


嫌だとひたすら思うだけで、一歩も動けない
私が生み出した人々はみるみる消えていく
豪華な建物も、シャンパンも灰色になってく


嫌……!!朝がくるのは嫌……

やめて……



目を開けると、アパートの寝室の天井が見えた
私はベッドに横たわっていた
首だけで隣を見やると、夫と娘がひどい寝相で眠っている

この2人は、私が、どんな姿で、どんなところで
どんな素敵な人と踊って、笑って
どんなに楽しく過ごしたかなんて知らずに眠っている

私は昨夜眠りにつく時の姿から何も変わっていない
もちろん顔はスッピン 眉間のシワもちゃんと、ある
やつれて、ひどい顔

ドレスやアクセサリーも香水も、ヒールも、
身につけていないどころか
元々、私はそんな高価なものは持っていないのだ

元々持っていないのに、何もかも取られたような
不思議な喪失感と
とてつもない孤独感を味わっている

もう一度…

あの特別な夜の余韻に浸りたいのに、
夫のいびきが邪魔をする
白から青へ変わる空を、
恨めしそうに窓越しに見上げる

またその時がくるまで
密やかに、新たな計画を温めよう


…ふと視線を感じて鏡台の方を見ると
鏡台の上に、くすんだ結婚指輪があった
指輪が、物言いた気に私を見ている

…本当は、私たち夫婦には結婚指輪さえ存在しないのだ

何もない鏡台を見つめていると、
私が特別な夜を過ごしたように、
もしかしてこの2人も……
そんな気がした




1/21/2024, 1:10:20 PM