「裏返し」
陸上選手といっても栄光は過去のもので、会社のお荷物となっていた。もう現役は続けられない、コーチとしてなら会社に残れるという。だから結婚に逃げた。私を知らない人なら誰でもよかった。
嫌いではないけど、好きでもない。中途半端な気持ちのままで見合いをして結婚した。うまくいくはずがない。家事はうまくできないし仕事もない。そんな私を養ってくれるだけでもありがたかったが、とうとう他に好きな人ができたと離婚を言い渡された。
すぐに別居し、あとは書類だけとなり、今、目の前に離婚届がある。すでに彼はサインは済ませ、私のサインを待つばかりだ。
「今すぐじゃなくていい。書いたら連絡くれれば出しておくから」
そう言って彼は伝票を持って席を立つ。最後もやさしいんだね。そう。彼はやさしかった。少なくとも私を好きになろうと努力してくれた。それを踏みにじったのは私だ。過去を詮索されたから。彼はそのままの私を受け入れようとしてくれただけなのに。
とりあえず紙を裏返した。だからってなかったことにはできないのに。立ち去る彼の背中をなすすべもなく見送った。振り返らないんだね。もう元には戻れないんだね。
もう一度紙を裏返した。急いで自分の名前を書いた。まだこの辺にいるかもしれない。店を出ると彼が歩いた方に向かう。あ、いた。とびきり背が高いからすぐに見つかる。
呼び止めて紙を渡した。
「さよなら」
それだけ言うと一目散に走る。めちゃくちゃに走ったから、自分が今どこにいるかもわからない。地図アプリを開いてみれば、さっきの店から500メートルしか離れていない。ずいぶん走るのが遅くなった。
そうね。また走ろう。一人になったから時間はたくさんある。会社のためではなく、自分のために。
「海へ」
「どこ行きたい?」
「海!」
だよな。夏休みも残り少なくなった。みんなそろって出かけるのはあと1回だ。もう3回も行ったけど、楽しかったもんな。うん、行こう。妻の方を見ると、笑顔だ。よかった。
「この前と同じところでいい?」
「うん、あそこがいい!」
水着、浮き輪、ビーチボール、サンダル、バスタオル。澪が用意を始める。おいおい、気が早いな。雫もバッグを出してきた。
「行くのはあさってだよ」
「えー、明日がいい」
ブーイングはなかなか止まらなかったが、妻の一言で見事に収まった。
「あさってじゃないなら、行かない」
「さあ、お待たせ。海に行くぞ」
爽はまだわからないはずなのに、澪と雫の様子を見て、楽しいことが待っているのがわかったのだろう。朝からご機嫌だ。荷物を積み込みエンジンをかける。さあ、出発だ!
8/23/2024, 12:38:42 PM