その日、鳥は鳴いていなかった。
蛍が波止場に着くと、そこはいつもの朝より静かだった。
あと一歩進めば海、の手前で立ち止まった蛍は、袂から小刀を取り出した。そして慣れた手つきで指の腹を切った。
切り傷が滲む指の腹を海に向けた。右手の親指と人差し指で血が滲む指をぎゅっと摘むと、赤い雫が海にぽとりと落ちた。
「あーホントにいたっ!蛍ー!」
静寂を破る甲高い声がした。
赤い髪を耳より高い位置で括っている。少女が動くたび、その毛先が右に左に揺れる。少女が隣に立つと、蛍より頭一個分背が高い。
「んもー外に行くなら書き置きくらいしてよ、お汁冷め……」
少女の声が止まった。その目は、海に向いている。
海には、一本の細い光が出来ていた。太陽の光の反射ではない。
海に細く長い、赤い道が通っている。
「来るの?」
先程の甲高い声ではない。いつもの声音より少し落ち着いた、捉え方によってはどこか冷たい響きを持った声だ。
蛍は迷いなく頷いたが、少女は納得していない様子だ。
「えー……向こうは昨日、嵐だったらしいじゃん。こっちは雨だけで済んだけど、兄さんが陸の方は嵐が来るから暫く船も出せないとか朝言ってたじゃない」
それでも蛍は首を横に振らなかった。元より蛍が否定したことは一度もないし、それを期待していない。客が訪ねてくるのは、嵐だろうが朝食前だろうが、いつだってこっちの都合はお構いなしだった。
蛍先に戻っていて、という前に、蛍は海に飛び込んだ。溺れることも波飛沫が飛び散ることもない。蛍がスタスタと歩く新たに出来た赤い道は、多分自分たちの住処に繋がっている。
少女は長いため息を吐いた。蛍の自由気儘な行動に対してではなく、これからのことだ。本当にやってくるなら、悠長にしている時間はない。
「白烏」
呼びかけると、海の向こうからカアと鳴く鳥がやって来る。黒ではなく、白い羽を持ち、金色の瞳を持つ白い烏……のような鳥だった。正式な名前は知らない。蛍に譲られてから、ずっと白烏と呼んでいる。
「訪ね人がいらっしゃると村に触れ回りなさい」
カアと一鳴き、白烏は飛び去った。これで集落の方には顔を出さずに済みそうだ。村中走り回っていた頃を思うと、ずいぶん楽になった。
少女は、蛍とも白烏とも異なる方向に走り出す。漁師らに伝達しなければならない。理由は知らないが、海の向こうから訪ね人がやって来る時は漁に出てはならない。
走りながら、腰に下げている巾着からみかんを取り出して皮を剥く。急いでいても、白い筋を取ることは忘れない。今度からは味噌汁を口にしてから蛍を探しに行こうと思いながら、ようやく今日初めてのご飯を口にした。
7/29/2023, 7:07:15 PM