"行かないでと、願ったのに"
朝から身体が怠くて、起き上がる力も無かった。
ぐったりと横たわる僕を横目に、普段通りに仕事に行く支度を整えた彼女は、良い子にしててね、といつもの言葉をかけて背を向ける。
行かないでと、願ったのに。
服の裾を掴んだ手は無言の内に払われた。
玄関扉が閉まった後、階段を降りる音が徐々に小さくなっていく。
己の耳の良さが呪わしかった。
なんの躊躇いもなく、立ち止まる事なくいつもと同じ歩調で歩む音を延々と拾ってしまうのだから。
喉が渇いて仕方がなくて、なんとか這いずって移動する。
うるさくした時に彼女に沈められる洗面器は、いつもの場所に置いてあった。
顔を水面に突っ込むも、つい癖で反射的に息を止めてしまい、全く水を飲めない。
それでも時間をかけて少しずつ水を口に含み、痛む喉で僅かな量を嚥下した後、力尽きて横倒しに転がった。
しんとした空っぽの部屋に、自分の咳の音が思いのほか大きく響いてぎくりとする。
彼女はいないのだから無理に静かにする必要はないのに、気付けば口を手で押さえつけて必死に音を立てないようにする自分がいた。
このまま死ぬのだろうかと、そうしたら彼女はほんの少しだけでも悲しんでくれるだろうかと、そんな考えばかりが頭の中を埋め尽くす。
ああ、でも。
僕がいても、いなくても、何にも変わらないか。
だって彼女にとって"あの人"だけが全てなのだから。
しんどくて、苦しくて、身体を小さく丸める。
歪む視界は、熱のせいだ。
きっと、そうに決まっている。
*
チャプンという水の音に、ふと、意識が浮上した。
薄っすらと目を開けると、白い指が額に当てられた布を交換するところだった。
ひんやりとした感触にうっとりと目を細める。
だが次の瞬間、再度響いた水の音にぎくりと身体を強張らせた。
ぬるくなって役割を果たし終えた布が洗面器の水の中に沈められる様を恐怖の眼差しで見つめる僕に気付いた貴女は、向こうに持って行ってくる、と慌てたように洗面器を持って立ち上がろうとした。
たが、その動きが途中で止まる。
どうしたの、と尋ねようとして、自分が貴女の服の裾を半ば無意識に握りしめていたことに気付いて固まった。
手を払われる痛みを想像して、反射的にギュッと目を瞑る。
でも、いつまで経っても予期した痛みは訪れなくて。瞼の裏の暗闇の中に、貴女が苦笑する気配を感じた。
"大丈夫。どこにも行かないから"
傍らに腰を下ろし、柔らかに頭を撫でながらそう言う貴女の声を前に、抱いていた恐怖も警戒も何もかもが蕩けて形を無くしていく。
なんとか持ち上げた手で、頭を撫でる貴女の手を握りしめた。
どこにも行かないでと、そう願いを込めて。
困ったやつだなぁ、と言う貴女の、ちっとも困ってなさそうな声音に口元を緩ませ、再び眠りの中に落ちていった。
11/3/2025, 4:29:49 PM