ドルニエ

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 夜が終わり、朝がやってくる。夢の終わり、あるいは日常の帰還ともいえる、名残惜しくも疎ましい時間だ。もう少しでこの部屋も出なくてはならない、そんなころ。
 絞ったタオルで拭いた肌を服で覆い、互いに身支度はほぼ終わっている。あとは細々とした装備を身につければいつでも部屋を出られる、そんなタイミングでも、俺の心はまだ甘やかだった。相手の背中に両の腕を回し、深い口づけをさっきから延々と繰り返している。離れるつもりがないのに、頭がしっかりホールドされていて動くことはできない。ただただ唇と、舌と、視線だけが絡み、動いている。
 俺はそれで最高の気分を味わっているのだが、このひとはどうなんだろうか。ふとそう思う。したくないことはしない。つまらないと思うこともしない。そういうひとなのは知っているが、でも、これだけで満足してくれるのだろうか。そう思ってしまう。
 と、目の前の顔がつ、と離れてしまう。行き場を失った舌と唇が間抜けに空を泳ぐ。肩口に両手が置かれる。
「また、つまらないことを考えているな」
 呆れ、だろうか。心の奥底までは見通せない目が俺を捉えている。俺は頷いて顔を寄せるも、同じ分だけ相手の顔が逃げるのでそこへは辿り着けない。
「キスだけであなたは足りるのかなって思って」
 思っていたことを隠さずに告げる。こういう場合、下手な隠し事をするほうが悪いということはよく知っている。目の前の顔が奇妙に歪んだ。
「キスなぞ大したことじゃない。私が見ているのはお前だ。お前のその緩みきった阿呆面がおもしろいのさ」
「――」
 思いもよらない回答、というより暴言に一瞬思考が止まる。が、すぐに言いたいことが分かってくる。あのひとは硬直した俺を意外そうな目で見たが、直後ににじませた気配で言わずともに悟ってくれたようだ。
「そうだ、その腑抜けた顔が見たいのさ。お前くらいなものだぞ、このくらいで頭が緩むおめでたい男は」
「それは――あなただけですよ。あなただから僕は。――分かりませんか?こんなに、」
 言いながら腕を背中に回して体を寄せる。服ごしにふたりの胸が合わさる。柔らかさと、ほんの少しの体温とが伝わってくる。
「これだけで僕の胸はこんなに高鳴るんです。クロエさんでもシェルビーさんでもこんなにはなりませんよ」
 鼻先に感じるあのひとの息がくすぐったくて、ごまかすように再び唇を重ね、舌を絡ませると、あのひとはすぐに主導権を奪い取ってしまう。
「嘘くさいな。試してやろうか。あいつらでも同じだったら、反対の耳も削いでやる」
 ぐい、と胸板のうえで柔らかいものが歪む。
「僕はあなたのものです。この耳も、指も。とっくの昔に奪いつくされてしまったんですよ。残ってるのはつまらない悪戯心だけです」
「その悪戯心とやらで何をする?」
「したいことをします。僕の、したいこと」
 目の前が少し暗く、遠くなる。海のうねりが胸によみがえる。
「だから、僕がどこかへ行っちゃわないよう、ちゃんと捕まえていてくださいね」
 唇をつける。軽く吸って、舌を出す。
「私が飽きるまでならな。約束などするもんじゃないだろう?」
「はい。飽きられないように、頑張ります」
 海が遠ざかり、目の前のひとの領域が広がる。そっと腕に力を込める。逃げないよう、洩れないよう。
 とくりとくりとしていた鼓動が再び早くなる。と――
 ガランガラン、とベルが鳴る。宿の主がチェックアウトを促している。
「時間、ですね」
「ああ。仕方ない、行くぞ?」
 体を離し、それぞれに身支度を整える。
 この町での休暇は今日まで。明日の朝には町を離れる。同じ町にはもう来ないかもしれない。それが旅人。だからこそ、俺は、許される限りこのひとのそばに。
 このひとのそばでふざけ切りたい。胸と胸を合わせて、唇と唇を合わせて、今朝、そう思い直した。

2/6/2025, 9:44:02 AM