・すれ違い
すっかり遅くなっちゃった。
真っ暗な廊下に、私の足音だけが響く。
高校三年、秋。受験生、真っ最中。
テスト期間でもないのに自習室で勉強に勤しんでいたのは、これが理由である。
帰りの電車では英単語を覚えよう。帰ったら数学の残りかな…
そんな思考しかできなくなっている自分に嫌気がさす。
ため息をついて、窓の外に目をやった。
校舎内となんら変わらない、夜の闇。
夜は結構好きだ。特に、淀んだ校舎から出た瞬間に飛び込んでくる、洗練された空気が好きだ。
かの有名な、「注文の多い料理店」のラストシーン。
店を出た旅人を迎えたのは、夜の闇だった。本当に、ホッとしたものだ。
そんなことを思いながら、なんとなく早足になったとき、足音が聞こえた。
前から誰か、来る。
幽霊だったらどうしよう、なんてアホらしい考えが浮かぶ。
立ち止まるわけにもいかなくて、私は俯きながら足を進める。
コツコツコツ…
その規則的か無機質な足音に聞き覚えがあって、私はふっと息を吐いた。
進路の、武田先生。
幽霊の次に、廊下ですれ違いたくない相手だ。安堵すればいいのか落胆すればいいのかわからなくて、私は俯いたまま百面相を繰り広げる。
口を開けば志望校を上げろ。お前の実力ならもっと上が狙える。そんなの知るか、と思う。
落ちたら責任とってくれるわけ?
浪人して、もう一年頑張ればいいじゃないか。
じゃあ、そのお金払ってよ。
そんな叫びは、言葉にならない。いつもこんなふうに俯いて、黙り込んでしまう。
「おお、落合か。こんな時間まで自習室か?」
黙ったまま頷く。やっぱり絡まれた。もう、放っておいてよ。
「ちょっと手、出してみろ」
はあ?手?さすがに叩かれることはないと思うけど。意図が読めなくて、私はおずおずと従う。
カラカラン
次の瞬間、ペンだこのできた手に乗っかっていたのは、かりんとうだった。そう。黒くて甘い、あのかりんとう。
え…?
「よく頑張ってるな。気をつけて帰れよ」
手を振って、武田先生は夜の闇に消えていく。お礼を言いそびれた、と思ったのは、ずいぶん経ってから。
外の闇は、やっぱり澄んでいた。
かりんとうなんかで餌付けされてたまるか、と強い意志を持って口に入れたそれは、泣きたくなるくらい甘かった。
10/19/2023, 11:04:10 PM